吉田松陰とは
 
 
吉田松陰は、江戸時代後期の1830年に長州で生まれました。
5歳から兵学を学び、9歳で明倫館の兵学師範に就任。11歳の時に藩主への御前講義。 13歳の時に長州軍を率い西洋艦隊撃滅演習を実施。
現代でいうと、小学生くらいの年頃でこんなことをやっているのですから、目を疑うような秀才ぶりです。

しかし、アヘン戦争による清国の惨状を知ると、松陰は日本の伝統的な兵学が時代遅れであることに気づきます。 そして、西洋列強に対応するための近代式軍隊が必要であると悟り、佐久間象山らに師事して近代兵学を学びました。

1852年、松陰は友人の宮部鼎蔵と東北旅行を計画します。しかし、藩からの通行証の発行が出発の日に間に合わないという事態となると、 松陰は宮部との待ち合わせの日を守るため、あっさり脱藩します。
東北をぐるりと旅して見聞を広めて江戸に戻りました。そして、脱藩の酬いとして、武士の資格を剥奪される処分を受けました。

1854年、ペリー率いる黒船艦隊が日本に来航しました。松陰は自身の目で世界を見るため、この黒船に乗って海外へ密航しようと画策します。そして、 小舟で黒船へと乗り付けて、連れ出してもらえるよう懇願したものの、断られてしまいました。
幕府に引き渡された松陰は、国元へと送還され、実家に幽閉されることになりました。

さて、実家での暮らしとなった松陰ですが、親族のすすめもあり、実家で『松下村塾』という私塾を開くことにしました。
それから2年ほど続いた松下村塾にて門下生として松陰の教えを強く受けたのが、 高杉晋作や伊藤博文らといった明治維新の立役者となった人たちです。
ただ、幕府による開国政策に憤慨した松陰は、公然と幕府の非を叫び、幕府要人の殺害を計画したり、さらにはその計画を公然と進めようとします。 のちに倒幕にまい進することになる門下生たちも、この時は松陰の言動にドン引き、 全力で諫めましたが、松陰は聞く耳をもちません。長州藩もさすがにコイツを人前に置いておくのはまずいと思い、牢獄へ入れることになりました。

江戸幕府の大老の井伊直弼が主導する安政の大獄が活発になると、梅田雲浜の逮捕に関連して、松陰は取り調べのために江戸へ呼び出されます。
じつはこの取り調べも、確認をとる程度の内容で、処刑されるようなものではありませんでした。 それなのに松陰は、取り調べの中で、幕府への批判や、要人の殺害計画のことをべらべらと喋ってしまいます。 さすがに幕府も放ってはおけず、松陰は処刑されました。