和気清麻呂とは
 
 
奈良時代は女性天皇である称徳天皇の御世。
称徳天皇の病気を治癒したことから天皇の寵愛を受け、権勢を誇ったのが弓削道鏡という坊主でした。
この道鏡が日本の国体を揺るがす事件を起こしたのが、『宇佐八幡神託事件』。
宇佐八幡宮にて「道鏡を皇位につかせたならば天下は泰平である」という神託が降りたと言い出したのです。

神託の確認のため、都より派遣されることになったのが和気広虫という女性でしたが、 病がちで長旅に耐えられないということで抜擢されたのが、弟の和気清麻呂でした。

清麻呂の聞き帰った神託の内容は、
「我が国は開びゃく以来、君臣の分は定まっています。
 臣が君となることはない。」
といったものでした。
すなわち、道鏡を皇位に就けてはいけないという報告を行ったわけです。
一説には清麻呂は皇統を護るために宮司を脅してでも道鏡を否定する神託を出させたという話も聞いたことがあります。

これにより日本の国体は護られ、道鏡の野望は潰えましたが、清麻呂は道鏡の怒りと恨みをかい、名前を別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)という子供の悪口 のようなセンスの改名を強制された上に、大隅国へ流されることになってしまいました。


大隅への道中、道鏡の刺客に襲われるも、猪の群れが現れて助けられたらとか、 宇佐八幡に詣でたら道鏡に切られた脚の腱が治ったとか、 明らかにこのあたりの伝説は話が盛られていますが、伝説の元となったのであろう道中刺客に狙われて切り抜けたくらいの話はあっても不思議ではありません。


ほどなく清麻呂は都に戻ることができました。
称徳天皇が崩御し、後ろ盾を失った道鏡が失脚したからです。
光仁天皇が即位し、清麻呂は元の位として召し返されました。もちろん名前もきたな麻呂ではなく清麻呂として。

その後の清麻呂は、当時の大事業だった平安遷都に大きく貢献したと言われています。


それから約1200年経った現在、万世一系の天皇を中心に世界最古の国家として日本が存続していることからも、 和気清麻呂は救国の英雄のひとりなのです。