藤堂高虎とは
 
 
藤堂高虎は1556年に近江で生まれます。
父の藤堂虎高(ややこしい。。。)はすでに没落しており、高虎の人生は農民の身からのスタートでした。

15歳で浅井勢として姉川の戦いに参加して武功を挙げます。

その浅井家が織田信長に滅ぼされてしまうと、浅井の旧臣に仕えた高虎でしたが、その旧臣もまた信長に追放されたため、今度は 信長の親戚筋の人物に仕えたのですが、そこでも自分への評価の低さから出奔します。
こうして士官先を求めて流れた高虎は、羽柴秀長(秀吉の弟)の家来へと収まりました。
ここから藤堂高虎の出世物語が始まります。

以下、羽柴秀長の臣下として羽柴秀吉の戦いに参戦し、武功を挙げ続ける高虎の活躍をダイジェストで書き連ねます。

織田信長の居城となる安土城築城に参加して築城術を習得。
中国攻めに参戦して活躍。
三木城の兵糧攻めで敵将を討ち取る。
但馬の平定戦で活躍。
高松城の水攻めで敵将を討ち取る。

本能寺の変後の明智光秀勢との戦いで、羽柴秀長勢の先鋒として明智方の敵将の首を次々とあげる。
賤ヶ岳の戦いにて、佐久間盛政隊を敗走させる。
小牧長久手の戦いでの城攻めにて活躍。
紀州征伐で活躍。
四国攻めで活躍。

聚楽第に徳川家康の屋敷を建造する役を果たしたことをきっかけに、徳川家康とのよしみを通じる。

九州征伐で活躍。
小田原征伐で活躍。
文禄の役で活躍。

こうして戦国時代の終盤まで戦場での武功を積み上げてきた高虎でしたが、ここで主君の豊臣秀長が死去しました。豊臣秀保が後を継ぎましたが、その秀保も17歳で間もなく死去。 秀保には子は無かったために秀長系の豊臣家は断絶してしまいました。
高虎はそれに伴って出家しましたが、豊臣秀吉がその才を惜しみ、還俗させて大名としました。
これによって、ついに藤堂高虎は独立大名となります。

高虎は続く慶長の役でも活躍し、手柄を立て続けます。


秀吉の死後、日本は豊臣家を担ぐ勢力と徳川家に加勢する勢力で二分してゆきます。藤堂高虎には先見の明があるのか、徳川家康を徹底的に助け続けました。
関ケ原の戦いでは小早川秀秋の脇を固めていた脇坂安治・朽木元網・小川祐忠・赤座直保を調略して寝返らせ、 大谷吉継と激戦を繰り広げました。
大阪冬の陣・夏の陣にも徳川勢として参戦します。
中でも夏の陣では、八尾・若江の戦いにて長宗我部盛親隊と木村重成隊を相手に連戦し、大きな犠牲を出しながらも戦い抜いています。(木村重成は知名度の低さとは裏腹にかなり有能な武将なのです)

高虎は徳川秀忠の代まで徳川に仕え、75歳で死去しました。