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徳川光圀とは |
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水戸光圀といえば、水戸黄門漫遊記など、光圀公がのんびりと全国を旅するのが時代劇の定番でしたので、
てっきり泰平をきわめた江戸時代中期のお殿様かと思いきや、水戸藩二代藩主で徳川家康の孫であり、江戸時代初期の人でした。
また、旅らしい旅もしていなければ、生涯のほとんどを水戸ですらなく江戸で暮らしました。
若い頃はやさぐれていて、遊廓に通ったり、町で辻斬りしたりと、半端ないグレ方をしていましたが、
18歳の頃に『史記』を読んで以来、人が変わったかのような真人間になります。
光圀は生まれの事情から、兄がいながらも家督を継いで、藩主になったのですが、
世継ぎには自分の子ではなく兄の子を養子にし、三代藩主としました。
これも史記の中でもとくに気に入っていた「伯夷伝」の兄弟の仁義に影響を受けていると言われています。
さらに光圀は、水戸藩をあげて日本国の歴史書『大日本史』の編纂にとりかかりました。
これも日本版の史記を作りたいと思って始めたようですが、とてつもない大事業となり、
光圀が生きている間に終わらないどころか、250年もかかってしまいました。
完成したのが明治三十九年といいますから、江戸時代の間にすら終わらない超大作でした。
1701年(元禄13年)、光圀は73歳で癌で亡くなりました。
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