徳川家康とは
 
 
幼い頃は不遇の人質生活。
元服後は松平家の主ながら、今川家の家来に甘んじていました。

桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討ち取られて今川家の力が弱まると、松平家はすぐさま今川から独立。松平元康から徳川家康へと家名ごと変更しました。
以降、家康は三河を本拠とし、織田信長と同盟を保ち続けていきます。

弱体化した今川家の領地は周囲の徳川、武田、北条の草刈り場となり、徳川は旧今川領の遠江を獲得。家康は二国持ちの有力大名となりました。

たびたび強国の武田に領土を脅かされるも、粘り強く守り続けていた1582年3月、武田家が織田信長によって滅ぼされます。さらに3ヶ月後の6月、その織田信長が本能寺の変にて死亡します。これによって、日本の中部では混乱と権力の空白が生じました。
この機に旧武田領を席巻したのが徳川家康です。旧武田の臣下たちを糾合して、勢力の拡大に成功しました。

同じ頃、主君信長の仇である明智光秀を討ち、逆らう織田の旧臣を滅ぼして信長の野望の後を継ぐ立場を確立したのが羽柴秀吉でした。
この羽柴秀吉が徳川家康のライバルとなり、小牧・長久手の戦いで矛を交えますが、最終的には和解しました。
そうして天下を手中に収めた羽柴秀吉は関白として天下を治め、羽柴から豊臣秀吉となりました。徳川家康はそんな豊臣政権の五体老という重鎮の地位に収まりました。

やがて豊臣秀吉が死に、家康と同じ地位にあった実力者の前田利家も亡くなると、ついに家康に天下獲りのチャンスが巡ってきます。

1600年、天下の大名たちは、秀吉亡きあとの豊臣家を支えようとする勢力と、徳川家康に味方する勢力に別れ、関ケ原で激突しました。
この戦いに勝利した家康は、大名たちの棟梁ともいえる立場となり、1603年には征夷大将軍となって、江戸幕府を開きました。

1614年、家康は江戸幕府による長期政権の障害となるであろう豊臣家を大坂の陣にて滅ぼしました。
こうして磐石の政権を築いた家康は将軍職を息子の秀忠に譲り、これ以降、江戸幕府は徳川家の世襲となって明治維新までの265年続きました。

将軍を退いた後も大御所として影響力を持ち続けた家康でしたが、1616年に75歳で生涯を閉じました。