武田信玄とは
 
甲斐国を治める名門武田氏も戦国期には、有力国衆の台頭によって低迷しました。これを武田信虎が服従させて甲斐を統一し、甲府の躑躅ヶ崎館に本拠を構えています。

武田信玄(晴信)は大永元年(1521年)、そんな甲斐国守護の武田信虎の嫡男として生まれました。

天文10年(1541年)、武田信虎か駿河の今川義元と会見するために甲斐国を離れたのを契機に武田信玄と武田家重臣たちが決起して信虎の追放が行われました。
これにより、信玄(晴信)が武田家の第十九代目の当主となりました。

信玄は東の北条、南の今川、西の織田などと同盟を結んで後顧の憂いを絶ち、北の信濃国への進出に専念しました。

信濃を攻める信玄は、諏訪氏、高遠氏、笠原氏などを滅ぼして木曽氏を懐柔するなどし、天文16年(1547年)までには信濃国の南半分にまで支配地を広げていました。そして、信玄の次なる敵として立ちはだかるのが、信濃国の守護である小笠原長時と小県領主の村上義清でした。
そして、この村上義清が信玄の天敵だったのです。村上義清は兵を率いての戦であれば、信玄にも勝る兵略の持ち主でした。

天文17年(1548年)、上田原の戦いにて両軍は激突しましたが、村上軍が勝利しました。信玄にとっては重臣のツートップといえる板垣信方と甘利虎泰を含む多くの将兵を戦死させてしまう痛恨の敗戦となりました。

天文19年(1550年)再び信玄は、村上義清の支城である砥石城へ侵攻したものの、「砥石崩れ」と云われる大敗を喫します。

武田信玄の生涯戦績は49勝3敗20分といわれています。そんな3敗のうち2敗を与えたのが村上義清なのです。村上との戦の同時期に片手間で戦った信濃守護の小笠原長時は容易に駆逐するなど、余所との戦では連戦連勝だっただけに、戦での村上義清との相性の悪さを痛感した信玄は、謀略をもって戦う戦法に切り換えました。
信玄は家臣の真田幸隆に砥石城の調略を命じました。命じられた真田幸隆がどのような工作を行ったのかは不明なのですが、なんと武田軍総掛かりで落とせなかった砥石城を真田隊のみで一日で乗っ取ってしまったと伝わっています。
これを境に形勢は変わり、武田軍は村上の支城を次々と落としてゆきます。それに伴って村上の家臣から武田に付く者が続出していきました。
武田を押さえきれなくなった村上義清はとうとう北信濃を去り、越後の上杉謙信の庇護を受け、上杉の属将という立場に収まりました。これで信濃のほぼ全域を手に入れると共に、武田信玄の敵は村上義清から上杉謙信へと代わりました。

武田軍は「軍神」といわれる上杉謙信の軍と信濃の川中島で対峙することになります。「川中島の戦い」といわれるこの戦は全部で六度ありましたが、そのほとんどはにらみ合いで終わっています。本格的な戦となったのは、第四回の川中島の戦いです。
この戦では弟の武田信繁をはじめとした重臣たちを失う激戦となり、混戦の末の引き際には武田信玄と上杉謙信の大将同士の一騎打ちが発生したという伝説まで付いた戦国時代を代表する大戦となりましたが、結果は痛み分けです。

信玄は負けない戦を続けてゆき、また他家との同盟関係を上手く変更してゆき、箕輪城を攻略したことで信濃国の東にあたる西上野を領有します。さらには信濃の西にあたる飛騨国東部と、支配地を広げてゆきます。


永禄3年(1560年)、駿河の今川義元が桶狭間の戦いにおいて、尾張国の織田信長に討ち取られるという大事件が起こりました。これを境に今川家は衰退が始まります。
今川家の当主は今川氏真に交代しましたが、三河で松平元康(徳川家康)が今川家から独立するなど分断が進むのを目の当たりにして、武田も今川との同盟を破棄、今川領は武田と徳川による草狩り場となりました。
これによって駿河国を領有した信玄は、ついに海を手に入れたのです。


永禄11年(1568年)、尾張国と美濃国を征した織田信長が、将軍となる足利義昭を擁して京への上洛を果たしました。その後の信長は将軍の後見人として権力を振るうようになります。それを許さぬ周辺の大名たちは次第に手を結び、信長包囲網を形成していきました。
武田信玄は当初、織田信長とは同盟を組んでいたため包囲網には参加していませんでしたが、信長による比叡山焼き討ちを機に同盟関係は破綻していったといいます。
さらには信長の傀儡となることを嫌った将軍足利義昭と信長の仲が険悪になってくると、足利義昭は武田信玄に宛てて対信長の軍事行動を起こすように求める御内書をを送りました。これを受けて、信玄も信長包囲網に加わります。

元亀3年(1572年)ついに信玄は西へ向けて軍を発します。
武田軍は信玄の率いる本隊と、家臣の山県昌景と秋山信友それぞれが率いる別動隊で三方から遠江・三河方面へと侵攻しました。この地域を治めるのは織田と同盟関係にある徳川家康です。
徳川の緒城をことごとく蹂躙し、遠江の要衝といえる二股城をも落とした武田軍は家康の本拠である浜松城に迫りました。このとき家康は籠城戦を覚悟していましたが、その家康を信玄は見事に城から釣り出し、三方ヶ原での決戦へと引きずり込みました。そして武田軍は、この三方ヶ原の戦いで徳川軍を鎧袖一触で蹴散らします。

信玄は以前から結核を患っていました。そして、飛ぶ鳥を落とす勢いのこの時期にその結核が悪化しました。武田軍は無念の撤退を決めますが、甲斐への引き上げの途中で信玄は亡くなりました。享年53歳。