聖徳太子とは
 
 
聖徳太子は第三十一代の用明天皇の子にあたります。母も父の母も蘇我氏から出ており、蘇我氏の血が濃かったようです。
「聖徳太子」というのは後世に付けられた呼び名で、当時の名前は「厩戸皇子(うまやどのおうじ)」なのですが、現在では一般には聖徳太子の方の名で通っています。

585年、父の用明天皇が即位しましたが、在位二年にして崩御しました。その頃の朝廷では蘇我馬子と物部守屋という有力者が、大陸から伝わってきた『仏教』の是非を巡って揉めていました。 この揉め事はやがて軍事的な対立へとエスカレートしていきます。聖徳太子は仏教推進の蘇我馬子の側に立って参戦し、物部守屋を討ち滅ぼしました。これ以降、仏教が容認され、日本に浸透していきます。

593年、推古天皇が即位しました。同時に聖徳太子が皇太子となり、蘇我馬子と共に天皇を補佐していきます。

603年、聖徳太子は『冠位十二階』を定めました。家柄よりも能力を重視して人材を登用したといわれ、これによって国家の官僚機構が整備されました。

さらに604年には『十七条憲法』という日本の憲法を制定しました。 ヨーロッパの人々が三十年戦争などを経て、「考えが違っても相手を殺してはいけない」と気付いたのは、今からほんの300年ほど前のこと。 しかし日本では、1400年前にはもう十七条憲法の第一条で「和を以て貴しとなす」と明記していました。日本が世界でも成熟した国家だった証左です。

また、聖徳太子の功績として特筆すべきことは、当時の支那の王朝である隋に対して 「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す」で始まる国書を届け、 日本が支那の冊封体制に入らないことを宣言したことでしょう。
以降、日本は独自の歴史を築いていくわけですが、聖徳太子の政策の数々によってその最初の一歩を踏み出したと考えれば、 たいへんな功績です。