渋沢栄一とは
 
 
天保11年(1840年)、武蔵国の血洗島村で生まれた渋沢栄一の家は百性の身分ではありましたが、藍玉の製造販売と養蚕を営なみつつ、米、麦、野菜の生産も手がける半ば商人のような百姓でした。
原料の仕入れ、製造、販売と一通りの商流に携わったことで、子供の頃から栄一の商才が養われました。

文久元年(1861年)に江戸へ出た栄一は、文は儒学者の海保漁村、武は北辰一刀流(お玉が池の千葉道場)に入門しました。そして、この時期に勤皇志士と交友を持ったことで、尊皇攘夷思想に感化されます。

文久三年(1863年)、栄一は従兄弟の渋沢喜作と連れ立って京へと上りました。尊王攘夷志士の主戦場ともいうべき京を拠点として活動を行おうという目論みだったようですが、この頃の京は八月十八日の政変直後だったせいで、勤皇派志士は四散していました。栄一と喜作にはいきなりの挫折です。

志士活動に窮した栄一たちは、江戸での活動時期にツテができていた一橋家家臣の平岡円四郎に推挙してもらい、一橋慶喜に仕えることになりました。
慶喜は徳川御三家の水戸藩で生まれ育ち、徳川御三卿の一橋家を継いだ人物です。倒幕を目指した栄一にとっては敵の組織に就職したようなものですが、そこで幕府側の言い分や世界の情勢を知った栄一は、安易に「攘夷」を騒ぎ立てる志士から一皮むけて視野が広がったものと思われます。

慶応二年(1866年)十二月、主君の慶喜が徳川幕府の将軍となりました。皮肉なことに勤王の志士だった渋沢栄一が、将軍のそばに仕える幕臣となったわけです。

慶応三年(1867年)、フランスの首都パリで行われる万国博覧会(1867年)に出席する徳川昭武の随員の一人に栄一が選ばれました。そして、一年半ほどパリ万博とヨーロッパ各国を訪問し、先進的な産業・諸制度を見聞しました。もともと商業の素養がある栄一は近代国家の詳細を知り、仕組みを理解することができました。
ところがこの間、日本国内では情勢が一変していました。大政奉還によって幕府が消滅してしまったのです。ヨーロッパ組にも帰国命令が届き、栄一らが帰国したのが慶応四年(1868年)十一月といいますから、まさに時代が明治となった転換期のことでした。


帰国後の渋沢栄一は静岡にいました。駿府にて謹慎していた徳川慶喜の旧恩に報いるべく、静岡に商法会議所を設立し、銀行業と物産販売で新政府からの借金返済に貢献していました。

明治二年十一月、栄一は大隈重信らの説得を受けて明治政府に出仕しました。
度量衡の制定や国立銀行条例制定に携わって国家の基礎づくりに尽力しますが、大久保利通や大隈重信と対立することが多く、明治六年に退官しました。

ここからの渋沢栄一は、民間から日本の経済発展を支えてゆきます。
まずは第一国立銀行(現在のみずほ銀行)」を設立しました。

さらに栄一は、さまざまな業種の会社を設立しまくります。その数500社以上といいますから、とんでもない数です。
ほんの少しだけ例を上げると、
・東京海上保険(現在の東京海上日動)
・東京瓦斯(現在の東京ガス)
・大阪紡績(現在の東洋紡)
・東京株式取引所(現在の東京証券取引所)
・帝国ホテル
・清水建設
・一橋大学
などなど、あらゆる分野で今日にも残る錚々たる企業を起こしたのです。

明治日本の発展には軍事や外交の業績が目立っていますが、国民レベルでの意識改革や経済発展など影から日本を底上げしたのが、渋沢栄一なのでした。