佐々木盛綱とは
 
 
平安末期、近江佐々木氏の佐々木秀義には4人の子があり、定綱、経高、盛綱、高綱といいました。
四兄弟は当時、伊豆に流されていた源頼朝の家人となり、頼朝が平家打倒の兵を挙げると、それに付き従いました。


福原から壇之浦までの平家滅亡への戦いの中に藤戸合戦という戦いがあり、ここで活躍したのが佐々木盛綱です。
『平家物語』には藤戸合戦と佐々木盛綱について次のようにあります。

讃岐の屋島に拠った平家は、瀬戸内海の本州寄りの児島に布陣。
攻めあぐねたのは、船を持たない源氏。

盛綱は付近の漁師に相談したところ、馬で児島へ渡れる浅瀬があるという。
さっそく漁師と共に浅瀬を確認した盛綱は、情報が他に洩れぬように漁師を殺したそうです。

翌日、盛綱は配下の7騎を引き連れて海へと入っていきました。
それを見た源範頼は盛綱が浅瀬を見つけたことに気付き、急ぎ本隊をもって盛綱に続きました。
両軍は児島にて激戦となり、源氏が島を制圧、平氏は屋島へと逃げ戻ったといいます。



盛綱以降、子孫は加地氏を名乗り、戦国時代の加地春綱・秀綱親子は越後の上杉謙信を主として仕えています。

ちなみに四兄弟の長男である定綱の子孫が、佐々木嫡流の六角氏や庶流の京極氏といった後の戦国時代でも有名な大名となっていきます。
南北朝時代に足利高氏と共に戦い有力者となった佐々木道誉は、この京極佐々木氏です。