大村益次郎とは
 
 
周防国で医者の子として生まれた益次郎は、 若い頃は医学や蘭学を学び、大阪へ出ては緒方洪庵の適塾で塾頭にまで登りました。 この頃は医学者らしく、村田良庵と名乗っています。

その後、伊予宇和島藩へ蘭学者として招かれ、西洋兵学・蘭学を教えました。 この頃、名前を村田蔵六と名乗りました。

宇和島藩主に付いて江戸に上った時期を経て、 知り合った桂小五郎のつてもあり、長州藩士となりました。

長州でも西洋兵学の講義などを行っていましたが、 この頃に幕府の長州征伐が開始され、迎え撃つ長州藩は急ぎ建設した近代軍の責任者に村田蔵六を任命されました。 この頃、名前を大村益次郎としています。

4方面から長州に進軍してくる幕府軍を迎え撃ちましたが、益次郎は石州口方面の指揮を担当。 巧みな用兵で幕府軍を撃退、さらに追撃まで行う完勝劇を演じました。

戊辰戦争では上野戦争において彰義隊を1日で撃ち破っています。

明治となり、新生日本の陸軍のトップとなった益次郎は、軍制の改革などに積極的に取り組んでいましたが、 明治2年、京都にて刺客に襲われ、重傷を負います。
回復もままならず、大阪病院へ転院しましたが、そこで感染症にかかり、亡くなりました。