織田信長とは
 
 
織田信長は室町時代の三管領の斯波家の家臣の織田家の中の二番目の分家(弾正忠家)に生まれます。
簡単に言うと、足利将軍から見れば、家来の家来の家来からのスタートでした。

織田家内での骨肉の争いを勝ちぬいて尾張守護代となると、たび重なる親族の謀叛も征し、さらには出る杭を打とうと謀略を仕掛けてきた主君の斯波氏をも返り討ちにして、信長が尾張を統一したのが1559年のこと。
そんな尾張統一をもって信長の戦いの第一章は完結かと思いきや、ここでボス戦が発生。
信長の尾張での地盤が固まる前に間髪入れず、隣の大国の今川義元の軍勢が攻め込んで来たのです。
今川の先鋒が次々と織田の砦を落としていく中、信長は雨を利用して今川本陣への突撃を慣行、みごと今川義元を討ち取りました。
これが1560年の桶狭間の戦いです。 信長二七歳。

信長はその後七年の歳月をかけて、隣国の美濃の攻略に成功。 これにより、尾張と合わせて百万石超えの大国の大名となりました。


ここから信長は天下を目指して動き出すのですが、近隣大名によるたび重なる信長包囲網に苦しめられることになります。

第一次信長包囲網では、同盟国は徳川家康だけ。同じように関東で半包囲されている武田信玄とは利害の一致で不可侵ですが、細川・三好・本願寺・朝倉・浅井などの大名に包囲されます。
この包囲は将軍足利義昭を通して正親町天皇にすがることで、なんとか和睦に持ち込みました。

第二次信長包囲網では、第一次の大名に加えて将軍足利義昭や強国の武田家までが包囲網に加わります。
そして遂には武田信玄が動き出し、三河・尾張方面へと攻め込んで来ました。
武田軍は三方原にて同盟の徳川家康をフルボッコにし、次はいよいよ尾張だというところまで迫りましたが、信玄の突然の死によって引き上げていきます。
信長は強運で命拾いです。
これで勢いづいた織田軍は足利義昭、朝倉、浅井、三好と各個撃破して包囲網を崩壊させました。

第三次信長包囲網では、本願寺・武田・毛利らに包囲されます。
さらには軍神上杉謙信が敵に回ってしまい、もはや絶体絶命です。
上杉軍との手取川の戦いでは、羽柴秀吉は逃げ出し、柴田勝家の部隊は一方的に殺戮される惨劇。
そんな万事休すな状況で、とつぜん謙信が卒中で死んでしまいます。
またしも信長は強運で命拾いしました。


我が道に敵無し状態となった信長は、関東、北陸、中国、四国の四方面へ軍を発し、全国統一に踏み出しました。
そんな中で信長は、中国方面へ遠征中の羽柴秀吉隊の援軍に向かうことになります。
その途上、京の本能寺に泊まった信長でしたが、ここで家臣の明智光秀に裏切られて、最後をむかえたのでした。
享年四九。