新田義貞とは
 
 
鎌倉末期から室町時代にかけての有名な武士といえば、 足利尊氏、楠木正成、新田義貞、北畠顕家(正確には武士ではないが)、赤松円心あたりでしょうか。

これを、強い武士は?という区分けに替えてみると、新田義貞が抜けることになります。

新田義貞は、戦が弱い武将のイメージがつきまとう、なかなかに残念な人です。
鎌倉幕府を直接滅ぼした人物であるにも関わらず、弱いで有名なあたりが、ますます残念な人なのです。


新田家は八幡太郎義家の四男、義国の長男の血筋という超名門。
なのに鎌倉末期の時点では、義国の次男の血筋の足利家が源氏の頭領格で、新田家はその家来の家格になってしまってます。


1332年、楠木正成が河内の千早城で挙兵・籠城すると、鎌倉幕府は20万人ともいわれる大軍を動員して、千早城を囲みます。
新田義貞もこの包囲軍に参加していましたが、病気を理由に新田荘に引き上げてしまいました。

長期の籠城戦で包囲軍に厭戦気分が高まる中、播磨でも赤松円心が挙兵、さらに反幕府の後醍醐天皇が流されていた隠岐を脱出するなど、倒幕の気運が少しずつ高まってきます。

決定的に流れが変わったのが、後醍醐天皇追討に鎌倉幕府から派遣された足利尊氏が後醍醐天皇側に付いて、逆に幕府の拠点である六波羅探題を落としてしまったことです。

さらに関東では新田義貞が挙兵、幕府の本拠地の鎌倉を落としてしまいます。
世界を席巻したモンゴル帝国の軍をも追い散らした鎌倉幕府が、あっという間に滅亡したことになります。


鎌倉幕府の滅亡後、後醍醐天皇による論功行賞では、倒幕の中心となった少数の武士はさすがに厚く遇されましたが、大して活躍したようには見えない公家への賞与がほとんどで、武士たちへの評価は冷たいものでした。
これで武士の反感を買ったのが、親政がうまくいかなかった大きな原因なのですが、新田義貞はというと、もちろん少数の武士に入っています。何せ鎌倉を落としたのですから。
この時が、義貞の絶頂期です。


1335年、鎌倉で中先代の乱を鎮圧した足利尊氏が、後醍醐天皇から逆賊の扱いを受けたのをきっかけに、武士たちは後醍醐天皇方と足利尊氏方に分かれて争うようになります。
親政に不満を持つ多くの武士は足利方に付き、倒幕で厚く遇された武士の中の楠木、新田、北畠などが天皇方に付きました。

官軍の総大将として足利追討を任じられた新田義貞は、途中まで足利方の大将が尊氏の弟の直義(この人も戦に弱い)だったこともあり、敵を蹴散らしながら鎌倉まで進撃していきます。しかし足利方の大将が尊氏に代わった途端に打ち負かされ、逆に京まで追いたてられる散々なことに。
しかしここで、東北から駆けつけた北畠顕家が足利勢の進撃を止め、さらに合流した楠木正成や名和長年らによって足利勢を京から駆逐することに成功しました。

駆逐された足利勢は九州へと落ちていくのですが、新田勢は追撃戦に入ります。
しかし追撃早々、まだ京に近い播磨で足利方に組する赤松円心に阻まれ、足利が九州で再起する時間を与えてしまいます。

このあたりの大まかな流れを見ると、残念ながら新田義貞は、足利の攻撃力、北畠の機動力、楠木の軍略を際立たせるかませ犬になってしまっています。

しかもこの時期、楠木正成が後醍醐天皇に、新田義貞を斬って足利尊氏と和睦するべきという提案をしたという話まであったりします。
公家たちに笑われただけで、案が採用されることはなかったそうですが、さすがに可哀相になってきます。

九州で軍を立て直した足利尊氏が、京へ向けて攻め上ってきました。
これに対し、新田義貞と楠木正成が兵庫で迎撃を行います。
寡兵だった上に連携が上手くいかず、楠木正成は湊川にて覚悟の討ち死に、新田義貞は敗走しました。


足利勢は京に入り、この時に名和長年などの後醍醐天皇方の倒幕の功臣の武士も戦死、天皇は比叡山に遷ります。
ところが、後醍醐天皇は足利尊氏と和睦してしまい、これまで命懸けで後醍醐天皇に尽くして戦ってきた新田義貞にはその事を知らせもしませんでした。
義貞、思いっきり切り捨てられています。

和睦の件を知った義貞が後醍醐天皇を問い詰めると、「あれは計略だ」と、しれっと言い放ちます。
そして、義貞には後醍醐天皇の王子二人と三種の神器を預けるので、北国に行くようにと指示をします。三種の神器はもちろん偽物です。
厄介払いされているようにしか見えませんが、以降の新田勢は、東近江から越前に展開することになります。


再び東北から北畠顕家が京へと向かってきました。
新田義貞はこの北畠軍と連携して、京を攻めるように計画します。
しかし今回も連携が上手くいかず、北畠軍は近江の手前で南に進路変更、伊勢方面から河内へと進出したところで、各個撃破されて北畠顕家は討ち死にします。


新田義貞の最期はあっけないものでした。
足利尊氏の配下の斯波高経の配下の得江頼員と戦っていた時のこと。
大将自ら偵察に出たら、移動中の敵部隊と遭遇してしまう大失敗です。
偵察だったので全員軽装備だった上に、泥田で足を取られるという、敵にとってはボーナスステージでした。
射掛けられた矢が頭に当たり、観念した義貞は切腹して亡くなります。
敵の方も、大将がそんな所に居るとは思わないので、討ち取ったものの、誰の首なのかしばらく判らなかったのだとか。

この事件は『太平記』にも『神皇正統記』にも書かれています。
残念ながら、
「しょーもない犬死にしやがって」
という書き方ではありますが。



新田義貞は作戦中の細かな戦闘では勝っていることもあるのですが、最終的に負けてしまうので、この時代をダイジェストで書かれると、いつも負けているようにみえます。
珍しく快進撃だった鎌倉攻略ですら、「あれは一緒に戦った足利義詮の元に兵が集まって大軍となり鎌倉を落としたもので、新田義貞はそれに便乗したにすぎない」などと後から足利尊氏あたりに難癖をつけられていて気の毒です。

同世代に天才が現れすぎたのかも知れませんし、側近にブレーンとなる人材が居なくて上手く立ち回れなかったのかも知れません。
ただ、そんな新田義貞を見ていると、凡人が天才たちの中で対等に振る舞うことの難しさや葛藤が伝わってきて、親しみすら湧いてきます。