楠木正行とは
 
 
楠木正行「くすのき まさつら」と読む。
楠木正成の長男で、父が大楠公とよばれていることから、正行は小楠公とよばれています。

一三三六年、一度は九州に追い落とされた足利尊氏軍は九州を制圧して勢力を拡大すると、逆に京へと攻め上ってきました。 そんな足利軍に対し、後醍醐天皇の命で迎え撃った楠木正成は、湊川で決戦を挑んで敗北(戦死)、足利軍を止めることはできませんでした。

そもそもその戦に勝てないことを悟っていた正成は、湊川への道中にある桜井駅にて、まだ若かった正行を本拠地の河内へと逃がしていたのです。

足利尊氏は京で光明天皇を擁立しましたが、 後醍醐天皇は南の吉野に逃れて南朝を建てたため、日本に二つの朝廷が存在する南北朝時代となりました。


十年が経ち、大人となった正行は、南朝方として父の後を追うような戦いを続けていきます。

征夷大将軍となって室町幕府を建てていた足利尊氏は、摂津・河内にて北朝方領主に勝利を重ねる正行に対して、山名時氏と細川顕氏の軍を派遣しましたが、これを正行は大阪の天王寺、住吉にて撃破。
しかもこの時、溺れる敵兵の多数を助け、手当をして敵陣へ送り帰しました。 これに感謝した者たちは、この後の正行の戦いに楠木勢として参戦したといわれています。

ついに幕府は、尊氏と共に長年戦い続けてきた百戦錬磨の高師直の軍を派遣、四条畷にて楠木正行軍との決戦となりました。

正行は奮戦むなしく幕府の大軍勢の前に敗れ、弟の成時と刺し違えて亡くなりました。