近藤勇を訪ねる

 

板橋駅前 (2017/11/23撮影)

JR板橋駅のロータリー。
電柱を見れば、何があるのかが薄々分かります。



新選組といえば一般的に京都の印象が強いところですが、新選組ファンの方には「板橋の刑場」もかなりポイントの高いフレーズかと思います。

ロータリーのすぐ向かい、「近藤勇の墓」と書かれた一角が見えまして、近づいてみると、何だかいろいろと在りそうです。




中に入ってまず目立つのは、近藤勇像。


像のサイズは小さいです。






像の横には大きめの墓が在り、正面には「近藤勇 宣昌・土方歳三 義豊 之墓」と刻まれています。



流山で幕臣 大久保大和として投降した近藤勇でしたが、官軍の中に近藤の顔を知る彦根藩士が居たために正体が発覚、さらに板橋の総督府にはよりによって元御陵衛士(近藤と因縁あり)が二人おり、面通しされて万事休す。
幕臣の大久保大和ではなく、新選組の近藤勇として罪人扱いで打ち首にされたのが、ここ板橋の刑場でした。

近藤の首は京へと送られ、三条河原に極悪人として晒されました。
首から下は処刑のあとすぐに、板橋のこの地に埋葬されたそうです。

新選組の生き残りの一人、一番隊組長の永倉新八が明治になってから、仲間を偲んで墓を建てたのだそうです。

という訳で、傍らには妙にきれいな永倉新八の墓が在りました。



このあたりのいきさつは、案内板も用意されています。



投降して終わってしまったため、最後まで戦い抜いて戦死した盟友の土方歳三とは人気面で水をあけられた感のある近藤さんです。




流山  近藤勇陣屋跡 (2019/5/22撮影)

千葉県流山市。流鉄の流山線で流山駅下車。



ここから西に歩いてすぐ、近藤勇陣屋跡があります。



幕末の京で新選組を率いた近藤勇は、鳥羽伏見の戦いでも幕府軍として戦いましたが、総大将の徳川慶喜の逃亡によって敗走し、戦いの舞台を関東に移しました。
そして、近藤勇が部隊を率いて戦った最期の地が、この流山でした。ここで新政府軍に包囲された近藤は投降、東京の板橋に送られて死罪となりました。

↑ 付近の案内板には、大雑把すぎる近藤勇のプロフィールが記されていました。