近藤勇とは
 
 
武蔵国多摩の宮川家に生まれた宮川勝五郎は、天然理心流の近藤周助に認められて養子となり、近藤勇と名乗って試衛館という道場を継ぎました。 そしてこの田舎道場に集まってきたのが、のちに新選組の幹部となる土方歳三、沖田総司、井上源三郎たちです。

文久三年(1863年)、将軍徳川家茂の上洛を警護する名目で企画された浪士組に試衛館のメンバーたちと参加します。 京で浪士組と袂を分かつと、壬生浪士組を結成、京都守護をしている会津藩の所属となることに成功しました。以降、京都守護職の名のもとに京の治安維持活動をはじめます。

この年、八月十八日の政変で長州藩が没落して京から放逐されると、長州の残党狩りが評価されて、会津藩より壬生浪士組あらため『新選組』の名を賜りました。 とはいえ、主に組内にて芹沢鴨の派閥との内ゲバに明け暮れる近藤たちでしたが、芹沢派を粛清して近藤派が組を牛耳ると、土方歳三と山南敬介が副長、 主に試衛館メンバーを隊長として十番隊までの組織に整備していきます。

元治元年(1864年)、長州藩士を中心とする反体制派が密会する池田屋に新選組が斬り込んで一網打尽にする事件が起こりました。 この池田屋事件をきっかけに新選組の知名度はうなぎ上り。隊士の追加募集を行って、大集団となっていきます。

さて、この追加募集で入隊した面々に、伊東甲子太郎が率いる一派がいました。 伊東派は優秀だったようで、伊東自身は副長格の参謀、九番隊長に弟の鈴木三樹三郎、柔術師範に篠原泰之進など、重く遇されています。 伊東と近藤は「攘夷」を望む面では考えが一致していましたが、伊東が「勤王」の志士であったのに対して近藤はバリバリの「佐幕」。 致命的な思想の違いを抱えながら団結が長続きするはずもなく、慶応三年に伊東派は新選組を離脱し、「御陵衛士」という勤王組織を結成しました。
ところが同年内に近藤派は、伊東甲子太郎の暗殺に成功。伊東の死体を京の油小路の路上に晒しておき、遺体の回収にきた御陵衛士を待ち伏せて、 藤堂平助ら三人を斬り捨てました。
犬猿の仲となった御陵衛士側も新選組に報復します。二条城に登城中の近藤を鉄砲で狙撃し、右肩に命中させます。 命に別状はなかったものの重傷のため、近藤は結核の沖田総司と共に大坂でしばらく療養に入ります。

慶応四年、公家を抱え込んで朝廷を担ぐ新政府軍と幕府軍による鳥羽伏見の戦いが始まります。 幕府軍側の新選組は近藤が不在のため、土方歳三が伏見奉行所にて指揮を執りました。 この時点での兵力では幕府軍が優勢だったのですが、新政府軍が天皇の軍をしめす錦旗を掲げた時から形勢が逆転します。 幕府軍の総大将である徳川慶喜は勤王の水戸藩出身、錦旗の出現を知ると戦意を喪失し、味方を置き去りにして大坂から江戸に逃亡しました。
取り残された幕府軍では、海軍の榎本武揚が急いで大阪城の財物と敗残兵をまとめて船で江戸に撤退し、 新選組の生き残りもこの船で江戸に移動します。

江戸にて新選組は甲陽鎮撫隊と名乗り、甲府城の征圧のために西に向かいます。
ただ、大坂から逃げ出した時点でもう戦う気を失っていた徳川慶喜は、すでに官軍に降伏する気満々です。 この頃、駿府まで進出していた西郷隆盛の元へ江戸開城の条件をまとめるために、山岡鉄舟を派遣していました。
山岡が幕府の恭順の意思を伝えると西郷は、まだ甲州で戦闘が起こっているようだが?と返します。もちろん近藤勇率いる部隊のことです。 これに山岡は、「脱走兵が勝手にやっていることなので、何の関係もありません」とバッサリ切り捨てています。 江戸幕府のために武士の誇りをかけて戦い続ける近藤一派は、穏便に降参したい幕府から、厄介者として扱われています。

そんな甲州への進軍も、結果は芳しくなく、たいした成果も無く引き揚げてきました。すると今度は、下総国流山へ出撃します。 要は、戦わずに江戸を明け渡して官軍が入ってくる時に、長州から恨みを買いまくっている新選組の残党が居るとトラブルの元なので、 幕府は理由を付けては新選組を江戸の外に出しているわけです。

流山にて近藤隊は、新政府の大軍に包囲されました。この戦いから近藤は名を「大久保大和」土方は「内藤隼人」と変えていましたので、 近藤は幕臣の大久保大和として、新政府軍に投降します。 しかし、かつて京にて志士たちを震え上がらせた新選組の局長は顔が売れており、官軍の中に近藤の顔を知る彦根藩士が居たために正体が発覚してしまいました。 さらに板橋の総督府にはよりによって因縁のある元御陵衛士が二人おり、面通しされて万事休す。 幕臣の大久保大和ではなく、新選組の近藤勇として罪人扱いで打ち首にされました。
享年35歳。