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北畠顕家とは |
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北畠顕家は南北朝時代の英雄で、日本最強の公家です。
顕家が歴史の表舞台に現れたのは1333年のこと。鎌倉幕府が倒れて間もなく、北畠顕家はわずか16歳で陸奥守となり、北条の残党の多くが入り込む奥州を鎮定しました。
顕家が奥州にて睨みをきかせて約二年が経った頃、関東では北条氏の復権を狙う北条時行による中先代の乱が勃発し、足利尊氏がこれを鎮圧しました。
ところが、この足利尊氏がそのまま鎌倉に引き籠もったため、朝廷から謀叛の疑いをかけられます。そんな足利尊氏征討のために派遣されたのが新田義貞だったのですが、鎌倉を目前に尊氏軍に反撃されると、新田軍は追うに追われて京まで退がってゆきます。
そのような状況の中で、京からの勅命が北畠顕家へと届きました。内容は「足利尊氏の軍を殲滅せよ」です。
いまだ奥州を治めて日が浅く、足場の固まらない時期でしたが、顕家は勅命に従って動き出します。それも誰の予測をも上回る速さで。
北畠顕家の軍は【風林火山】の旗を掲げていたと伝わっています。そして、まさに疾きこと風の如く進軍し、電撃戦を演じます。
顕家軍は約十日で鎌倉を攻め落とすと、さらに十日ほどで京の新田義貞・楠木正成と合流したのです。そして楠木正成らと連携して、足利尊氏の軍を西方へと打ち払いました。
さて、留守にしていた奥州では、足利尊氏を棟梁と仰ぐ武士の反乱が乱発していました。後醍醐天皇による親政は、武士たちからの評判がすこぶる悪かったのです。
再び奥州へと戻った北畠顕家は奮戦し、改めて反乱を鎮定してゆきます。
そうしている間に足利尊氏は九州で軍を立て直し、大軍をもって京へと攻め上ってきました。迎撃に出た 楠木正成も湊川にて戦死しています。
その後、足利尊氏の軍門に降り、上皇待遇で京に暮らしていた後醍醐天皇でしたが、隙をついて吉野へと脱出、1336年12月より南北朝時代が始まりました。
楠木正成ら側近の武士を既に失っている後醍醐天皇は、さっそく奥州の北畠顕家に京への上洛を命じます。
これを受けて出撃した顕家率いる奥州軍は奮戦を続けながら再び鎌倉を落とし、京を目指します。そして、そんな顕家軍の後ろを足利方の高師兼の軍が追ってきます。
顕家軍が美濃を通過したとき、追ってきた高師兼の軍に美濃国守護の土岐頼遠の軍が合流し、大きな軍勢となりました。さすがに無視できなくなった北畠顕家は軍を引き返し、青野原で両軍は激突しました。
青野原は、のちに関ヶ原と呼ばれる場所です。
この戦いに勝利した顕家でしたが、さらに足利方は京から主力部隊を繰り出してきました。これに対しても激戦を続けて戦闘を優位に進めていた顕家でしたが、足利勢を撃破するには至らず、さすがに兵も消耗してしまいます。そこで顕家軍はまっすぐ京へと入るルートを諦めて、南へと転進します。
南の伊勢国は顕家の父の北畠親房の本拠ですし、南西の吉野には後醍醐天皇がいます。北の越前には新田義貞がまだ健在だったのですが、顕家は南を選びました。
奈良の吉野にて父との対面も果たした顕家は、そこから北上して京へ南から攻め入ろうと動きましたが、これを迎撃すべく、ついに足利家執事の高師直が出陣しました。
移動と連戦に疲弊していた顕家軍は、高師直の軍に般若坂の戦いで敗れて北進を断念、西の河内へと向かいます。
3月8日に摂津国天王寺で足利軍を、さらに3月15日に摂津国渡辺で足利方の上杉重能を撃破した顕家の軍。どんなに疲れていても、高師直クラスでなければ顕家は勝ち続けます。
そして5月12日、阿倍野・天王寺に高師直の大軍が現れました。堺浦の戦いと呼ばれる戦闘にて両軍はぶつかりましたが戦力の差は如何ともし難く、ついに北畠顕家は討ち取られてしまいました。
享年21歳。
陸奥の守として奥州へと下向したのが16歳の時でしたから、たったの5年で歴史にその名を轟かせたことになります。
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