桂太郎とは
 
 
桂太郎は幕末期の1848年、長州にて生まれました。
桂家は先祖を辿ると、鎌倉幕府創設の立役者の一人である大江広元へつながるといわれています。これは主君の毛利家と祖を同じくしており、桂家は長州では名門にあたります。

若い頃の桂太郎は、主君の毛利家にて小姓役を命じられていました。
二十歳の時に戊辰戦争が始まると、官軍の中隊長として東北を転戦しましたが、華々しい戦果をあげることはできませんでした。
ただ、この頃に桂太郎は西郷隆盛や大村益次郎、木戸孝允といった維新の大物たちとの関係を築いています。

明治二年、桂は大村益次郎の口ききで横浜語学所に入学することになりました。桂には留学したいという強い想いがあり、ここからの官費留学が狙いでした。
ところが、桂の入学を目前にして大村益次郎が暗殺されてしまいます。すると、たのみの横浜語学所の組織が改編されてしまい、官費での留学ができなくなってしまいました。
留学ができないのであれば意味がないと、桂はすぐに退学すると、親と藩を説得して自費留学へと出たのでした。

桂が留学した先は、ビスマルク時代のドイツです。
ここで桂は最新の軍政の研究に没頭していきます。

明治六年、すでに留学費用が底を突いてきていた桂の居るドイツへ、岩倉使節団がやってきました。
桂は通訳として使節団に同行し、共に日本へと帰国しました。
そして、木戸孝允の口ききで帝国陸軍に大尉として任官しました。

明治八年、桂はドイツ公使館附武官として改めてドイツへと赴任し、軍事行政の研究を再開しました。
この研究は、明治十一年に紀尾井坂の変で大久保利通が暗殺されるまで続きました。

桂は日本の軍制の改革に尽力しつつ、次第に政治の世界にも参加していきます。そして、陸軍の重鎮であり元老の山県有朋の懐刀として、大臣などを務めました。

明治三十四年、ついに桂太郎は第十一代内閣総理大臣に就任しました。
この頃のヨーロッパでは、世界二位と三位の海軍力を誇るフランスとロシアが同盟を結んでいました。さらにドイツとオーストリアとイタリアも三国同盟です。そんな中にあっても一位のイギリスは『栄光ある孤立』を貫いていました。二位と三位が束になっても揺るがないほどの圧倒的な一位の自信です。
そんなヨーロッパの国々から見れば、アジアでは清国くらいしか国家として認識されていなかったのですが、その清に日本が日清戦争で勝利したことによって、日本は主権国家として世界に認められるようになっていました。

第一次桂内閣では、栄光ある孤立のイギリスとの同盟となる日英同盟の締結に成功しました。
イギリスにとっては手の届きにくいアジア方面の番犬程度に考えていたのかもしれませんが、日本にとっては世界最強の味方です。
そんな同盟国イギリスからのアシストを得つつ、南下してくるロシアと対決したのが日露戦争です。
日本の勝利に世界が驚いた戦争でしたが、開戦時から終わらせ方を考えて動いていたのが桂です。
陸軍も海軍も連戦連勝を重ねた状態で武器弾薬が尽きたそのタイミングで、その事を気付かれることなく日本に有利に講和をまとめました。

明治四十一年、西園寺内閣を挟んで第二次桂太郎内閣が発足しました。
ここでは日米と日英の通商航海条約の改正に成功しました。日本が幕末に結ばされた不平等条約によって失っていた関税自主権を回復したのです。

また、組閣時点で日英同盟に四国協商と、ヨーロッパとの平穏は完成していた日本でしたが、さらに高平・ルート協定を結んで日米双方のアジアでの既存の権益を認め合いました。
さらには、問題の多かった韓国の併合で大陸との緩衝地帯を安定させるなど、なかなかに高度な安全保障外交を成功させています。

第一次・二次と、当時では最長の任期をまっとうした桂太郎内閣でしたが、第三次は逆に最短の政権となってしまいます。

桂としては閥族のトップである山県有朋には嫌気をさしていたようですが、世間からは桂は山県の子分とみられていました。
「閥族打破」が叫ばれるようになった当時の世の中で、桂は世間の目の敵となっていたのです。
組閣時点で桂は既に癌を患っており、焦りがあったともいわれていますが、正当性を示すために大正天皇の勅語を連発したことも火に油を注ぎました。

この第三次桂太郎内閣は62日の短命に終わり、その年の内に桂太郎も亡くなりました。