勝海舟とは
 
 
幼名は勝麟太郎、昇進して勝安房守と名乗る。海舟は号で、佐久間象山の著書「海舟書屋」からとったらしい。
貧乏御家人で食うにも困ったが、剣を習えば免許皆伝、地理学・兵学を習えば最終的に蘭学の塾を開くという秀才でした。

ペリーが来航した時、幕府は海防意見書を募集しました。
勝海舟が応募したところ、内容の適確さから老中の目に留まり、しかもその海舟が蘭学も心得ていると知れると、 対外政策で重用されるようになります。

1860年、咸臨丸の艦長として、福沢諭吉やジョン万次郎らと渡米。
帰国後、神戸海軍伝習所を創設すると、全国から生徒を募り、操船技術や航海術を教えました。 ここに坂本龍馬ら脱藩浪士も参加しています。

禁門の変などを経て倒幕の気運が出てくると、幕府は諸藩や体制の引き締めにかかります。
すると脱藩浪士も平等に養っている海軍伝習所も目を付けられ、閉鎖に追い込まれてしまいました。
ここから海舟は、2年間の蟄居に入ります。


さて、勝海舟は二人の大物に大きな影響を与え、それが結果として今の日本への道筋を作っています。

その一人目が坂本龍馬。
彼は見方によっては、大物というよりチョロチョロと暗躍する怪しげな浪人ですが、現代では維新の立役者として日本史の大人気人物ですので、大物としておきます。
龍馬が攘夷と称して勝海舟を斬るために勝の屋敷に訪ねていったものの、海舟の話を聞くと、斬るどころか海舟に弟子入りしてしまったというエピソードは、幕末ファンの大好物な話です。
このとき海舟は、世界の状況と日本の置かれた立場、日本人としてどう動くことがベターかを説いて、龍馬を目覚めさせています。

二人目の大物が西郷隆盛。
第一次長州征伐の時、西郷は幕府軍の総大将で、長州を徹底的に叩くつもりでした。 そんな西郷が滞陣中、恩師であり前藩主だった島津斉彬の盟友だった勝海舟を訪ねたといいます。
そこでも海舟は日本人として考えること、そうすると長州を潰すことは日本を立て直すにあたって損失であると説き、目覚めた西郷は長州の力を残すように尽力します。


さて、その後情勢は進み、幕府による第二次長州征伐が行われました。
もうこの段階では薩摩と長州の秘密同盟が成っていて、長州藩は薩摩から流れた新式の装備で武装しており、海援隊も海から支援、高杉晋作や大村益次郎ら軍事の天才の活躍で幕府軍をはね返す状況でした。
勝海舟はその裏で、幕府から停戦交渉の任務を受けていました。
長州側が優勢なだけに難しい交渉を続けていましたが、新将軍の徳川慶喜が停戦の勅命を引き出したことで全て無駄になり、海舟は辞表を叩きつけて江戸に引きこもってしまいました。


慶応四年、戊辰戦争が始まり、官軍となった薩摩・長州を中心とした藩の軍勢が京を抜いて江戸へ向けて進軍していました。
幕府は再び勝海舟を高官として迎え、官軍との交渉にあてます。

官軍の総大将は西郷隆盛。
勝海舟と西郷は江戸で会談し、江戸城を開城することで、江戸を戦火から守りました。

勝海舟の影響を受けた坂本龍馬と西郷隆盛が中心に薩長同盟を完成させて倒幕への流れを変え、 勝海舟と西郷隆盛が江戸開城で江戸時代の幕を引く、欧米列強に付け入る隙を与えない奇跡の維新劇でした。