井原西鶴とは
 
 
1642年〜1693年といいますから、井原西鶴は3代徳川家光から5代徳川綱吉あたりの治世の人です。

若い頃の西鶴は、俳諧師として名をはせていました。 ただ、自由すぎる作風のため、俳諧師の業界では浮いた存在だったようです。

32歳の時、生魂神社の境内にて『万句俳諧』という一昼夜かけて即興の句を作りまくるイベントを行いました。 これは現在でいうところの単独ライヴの先駆けと言われています。

以降、他の俳諧師たちが我こそはと同様のイベントを開催しては、一昼夜で作る句の数を更新して競い合っていきます。
西鶴もまたイベントを行っては、作成した句を出版していました。

作家に転向し、あの有名な『好色一代男』を出版したのが1682年といいますから、 作家として活躍したのは意外にも晩年のことでした。

数々の作品を残し、1693年に52歳で亡くなりました。

一説によると上方の落語家の名前に「鶴」の字がつく方が多いのは、 井原西鶴の一字を頂いたものだと言われています。

さらに余談ですが、生類憐みの令でおなじみな将軍の徳川綱吉は、娘の鶴姫が可愛いあまり「鶴字法度」を発布して、庶民が『鶴』の字を使用することを禁止しました。
おかげで綱吉が亡くなるまでの間、井原西鶴は「井原西鵬」と名乗っていたそうです。