堀田正睦とは
 
 
江戸時代後期の1810年、下総国は佐倉藩三代藩主の堀田正時の次男として生まれたのが堀田正睦(ほったまさよし)です。

まだ物心もつかぬ二歳のときに父の正時が亡くなったため、従兄の堀田正愛(ほったまさちか)が四代藩主となりました。
このとき、幼い正睦は藩主となった正愛の養子となり、次期藩主の候補となったのです。

この正愛が病弱で、1824年には藩主として政務など執れない状態となりました。そうなると、代わって藩主となるのは養子の正睦ということになります。
ところが、正睦への藩主継承に強硬に反対する者が現れました。それが正愛の家臣のひとり金井右膳(かないうぜん)です。この者が堀田正睦の最初の敵といえるでしょう。

金井右膳は祖先が仙台伊達藩につながる男で、幕府へのパイプを持つ実力者。この右膳が実質佐倉藩を牛耳っているともいえます。
このとき金井右膳は、次期藩主には下野佐野藩主である堀田正敦の子を新たに正愛の養子に迎え、家督を継承させようと動いたのです。
しかし、さすがにこれはおかしいと、渡辺弥一兵衛ら下級武士たちの反発が膨らんでゆき、佐野藩側もそのような佐倉藩へ養子を出すことを断ったため、金井右膳が折れる形で正睦が佐倉藩十一万石の第五代藩主となりました。正睦15歳のことでした。

こうして歴史の片隅に埋もれずに済んだ正睦は、自分をもり立ててくれた渡辺弥一兵衛らをその後も重用していくのですが、この時点ではまだ藩の実力者であり正睦に批判的な金井右膳の威勢が衰えたわけではありません。正睦は藩主でありながら、波風立てぬように政務をこなしてゆきます。

そして堀田正睦が藩主となって約十年、ついに金井右膳が亡くなると、正睦は重しがとれたかのようにのびのびと藩政を行うようになります。
正睦は蘭学好きで、高野長英らの蘭学者に師事し、江戸の蘭方医であった佐藤泰然を佐倉に招いて『佐倉順天堂』を創設するなど、蘭学の普及に力を尽くしました。そんな正睦だったので、世間からは「蘭癖大名」の異名を得たようです。
ちなみにこの佐倉順天堂は、乳癌手術や種痘を手掛けるなど、当時の日本での西洋医学としては最高水準の医療を施し、現在の順天堂大学の礎となっています。

さて、20歳になると江戸幕府での役職にも従事するようになった正睦は、奏者番、寺社奉行、大坂城代、江戸城西の丸老中と、32歳までかけて出世街道を駆け上がり、ついには江戸の本丸老中にまで到達しました。

堀田正睦が老中に就いたころ、幕府は水野忠邦が主導する天保の改革に取りかかっていました。
水野忠邦に推挙されて老中になった正睦も、当然この改革に関わることになります。
ところがこの改革、各地の困窮する藩に苦難を及ぼす政策であったため失敗。さらには水野忠邦の収賄まで発覚して、忠邦は失脚します。
堀田正睦はというと、自らに危害が及ぶ前にさっさと職を辞して自藩へと戻ったのでした。


十数年の月日が経ちました。
堀田正睦46歳のとき、転機が訪れます。
なんと、老中首座として幕府に招かれたのです。老中首座は江戸幕府の中でもトップクラスの役職です。
それまでの老中首座は阿部正弘でした。ちょうどペリー率いる黒船が来航した時期で、阿部は開国に向けて動いていました。しかし、当時はまだ攘夷思想が根強い頃で、水戸の徳川藩が猛反対に出ました。幕府の大物で開国派の井伊直弼と水戸藩との板挟みとなった阿部は老中首座を辞して老中へと降格し、空いた首座に堀田正睦を呼んできて据えたという訳です。
ただし、首座といってもそれはお飾りで、主導権は阿部正弘が握り続けました。

佐倉藩主になった頃の金井右膳といい、老中首座になった頃の阿部正弘といい、その地位とは裏腹に目の上のたんこぶに気を遣わざるをえないのが、堀田正睦のつらいところです。

1857年、阿部正弘が亡くなりました。
そんな翌年、ペリーに代わってやってきたハリスから、日本は日米修好通商条約の調印を迫られます。

蘭癖と呼ばれた堀田正睦はもちろん開国派です。ですが、黒船がやってきた当時の日本人にはまだまだ攘夷思想が根強く、世間は条約締結に猛反対。正睦としても独断で好きなように進めるわけにはいきません。そこで考えたのが、朝廷のお墨付きがあれば、多くの人も納得するだろうというものでした。

正睦は六万両の資金を持って上洛しました。そして、懐具合の苦しい朝廷を懐柔しようと画策します。
しかし、当時の孝明天皇は大の異国嫌い、最後まで異国との条約締結は認めませんでした。

勅許をとれず渋々引き下がった幕府にここでさらに新たな事件が。
将軍の徳川家定が亡くなり、跡目問題が湧き上がったのです。というのも、家定には子がおらず、家督は他家から養子をとる形で相続されることになったからです。このとき将軍候補として注目されたのが、紀伊藩主・徳川慶福と、御三卿・一橋慶喜でした。
堀田正睦は考えます。この一橋慶喜というのは、攘夷派の急先鋒である水戸の徳川家斉の七男で、一橋家に養子に出された人物です。そんな彼を将軍に擁立し、さらに攘夷派の松平慶永を大老に任じれば天皇の覚えもめでたく、勅許取得への道が開けるのではないかと。

ところが、堀田正睦には目の上のたんこぶのように、いつもその行く手を阻む者が味方陣営から現れます。このとき現れたのが、大老の井伊直弼でした。正睦と井伊は両者とも開国派として同じ側の人間でしたが、朝廷を取り込む意図があれど、一橋慶喜の擁立の動きを見せた正睦は、井伊には寝返りに見えたようです。

井伊は堀田正睦が江戸を離れた隙を見計らい、徳川慶福を将軍に擁立。十四代将軍、徳川家茂となりました。そして家茂の元で大老に就いて実権を握ると、勅許を得ないまま日米修好通商条約を締結してしまいました。
当然ながら幕府のこの動きには、日本中の攘夷派から非難が湧き上がりました。すると井伊は、そんな批判者たちを片っ端から弾圧しまくるという荒技に出たのです。安政の大獄です。
このときに堀田正睦も職を解かれ、またしても強い力に押さえつけられた形です。ただ、正睦への処置は職を解かれただけで、謹慎ではない比較的軽いものでした。井伊直弼としても堀田正睦への信頼があるため、今回はお灸をすえる程度の処置であり、時期をみて復職させるつもりだったのではないかともいわれています。
しかし、大なたを振るいまくった井伊が「桜田門外の変」で暗殺されると、正睦は復職どころか、朝廷と幕府の両方から蟄居を言い渡されることに。

井伊体勢の終わった幕府からも、井伊を苦々しく思っていた朝廷からも、堀田正睦は井伊に失職させられたことよりも、井伊に目をかけられていたイメージが強かったようです。
その後も正睦が幕政に関わることはなく、1864年に佐倉にて亡くなりました。