本田忠勝とは
 
 
本田忠勝は徳川四天王のひとり。一生を徳川家康に付き従って戦い続けた猛将。

手勢のみで敵勢に斬り込むといった戦術をたびたび執っていたにもかかわらず、生涯五十七度の戦で一度も手傷すら負わなかったと伝えられる猛者です。

本田忠勝は戦国時代最強の武将と評価されることが多くあります。 その根拠の一つは上記の生涯無傷の言い伝えですが、他にも次のような理由があると思います。
・強い敵を相手にすることが多かった。
・多くの名のある人物が本田忠勝を誉めた。

■ 本田忠勝が戦った強い対戦相手の例

・姉川の合戦で朝倉軍(当時の有力大名)に単騎突撃。徳川軍に勝機をもたらした。

・一言坂の戦いで武田軍からの撤退戦で殿を務め、馬場信春(武田四名臣、最強クラス)の攻撃をしのいだ。

・三方ヶ原の戦いで山県昌景(武田四名臣、最強クラス)隊を撃退。

・小牧・長久手の戦いで羽柴秀吉(のちの天下人、最強クラス)の十六万の軍勢の前に五百の手勢で立ちはだかった。


■ 本田忠勝を評する発言の例

・高天神城の奪還戦での活躍に、徳川家康は「まことに我が家の良将なり」と賞賛。

・一言坂の戦いにおける殿軍での戦いを見た武田軍の小杉左近から「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」

・織田信長が侍臣に「花も実も兼ね備えた武将である」と本田忠勝を紹介。

・豊臣秀吉「日本第一、古今独歩の勇士」また、九州征伐の際に立花宗茂を誉めた時のことば「東に本多忠勝という天下無双の大将がいるように、西には立花宗茂という天下無双の大将がいる」


そんな本田忠勝が大名となったのが、小田原攻めの後に徳川家康が配置転換で江戸に移った際のこと。房総方面の里見氏への備えとして、大多喜に十万石を与えられました。
さらに関ヶ原の戦いの翌年には伊勢国の桑名に領地を与えられ、11年治めた大多喜からそちらへと移ります。

1605年(慶長十五年)桑名にて死去。
享年69