畠山重忠とは
 
 
1180年に源頼朝が伊豆で挙兵したとき、平氏に仕えていた畠山重忠は平家側の将として兵を繰り出し、頼朝に味方する三浦氏を打ち払いました。

敗れて房総半島へと逃げた頼朝でしたが、すぐに現地で再起を図ると、軍勢を増やしながら武蔵国へと進軍してきました。畠山重忠はここで頼朝に帰参し、頼朝軍の先鋒として鎌倉へと入りました。

1184年、関東の平定を完了した頼朝は、先に平氏を蹴散らして京に入っていた木曽義仲を討伐するため、西へ向けて軍を派遣します。その鎌倉軍の中に畠山重忠の部隊も参加していました。
畠山重忠らは宇治川の戦いで木曽軍を破って京へとなだれ込み、追いたてられた木曽義仲は源義経によって討ち滅ぼされました。

京を制圧した源義経・源範頼をはじめとする鎌倉軍は、続いて摂津国福原に逃れていた平氏の討伐のために京を出撃します。

一ノ谷の戦いにおいて、鎌倉軍は源義経の指揮のもと「鵯越の逆落とし」と呼ばれる崖を駆け下っての奇襲攻撃で大勝しましたが、このときの畠山重忠は愛馬を壊したくないからと、馬を背負って崖を下ったという伝説が今に伝わっています。

源平合戦の結果平家は滅び、源氏の率いる関東武士の世になりました。すると、源氏の身内の間での争いや粛正が繰り返されるようになってゆきます。
源義経といえば日本史上屈指の用兵家であり平家討滅の立役者でしたが、彼もまた兄の頼朝に疎まれるようになり、身を寄せた奥州藤原氏の元で命を落としました。
そんな奥州を征伐しようと鎌倉軍が兵を挙げたのが1189年の奥州合戦で、畠山重忠は先陣を務めて勝利し、藤原氏を滅ぼしました。
さらに頼朝の上洛での先陣も務め、重忠は鎌倉幕府の中でも有力御家人へと登り詰めていきました。

1199年に源頼朝が死去し、二代目源頼家の治世となりました。この頃から頼朝恩顧の御家人同士が争う事件が増えていきます。
まず梶原景時が滅ぼされ、続いて比企能員が滅ぼされました。比企氏は源頼家の外戚として権力を誇っていましたが、北条時政の謀略によって討たれって絶大な権力を握ったのが北条氏でした。北条氏は鎌倉殿を助けて政務を取り仕切る『執権』という役職を新設し、その初代に北条時政が就任しました。

北条時政が次に敵視したのが畠山重忠でした。時政は重忠の従兄弟の稲毛重成に畠山重忠が謀叛を企んでいると誣告させ、三代将軍の源実朝から重忠討伐の命を引き出した。一方で重忠には「鎌倉に異変あり、至急参上されたし」との偽りの指示を与えました。
武蔵国の菅谷館にいた畠山重忠はただちに130騎ほどの手勢を率いて館を出ました。しかし、鎌倉への途上となる武蔵国二俣川にて、北条義時を大将軍とする数万騎が自分を討つために差し向けられたことを知りました。
死を覚悟した重忠は手勢と共に北条軍を待ち受けました。そして、多勢に無勢ながらも畠山重忠はよく戦いましたが、最期は北条方の愛甲季隆に射られて討ち死にしたといわれています。
享年42歳。