明智光秀とは
 
 
明智光秀の前半生は謎です。
土岐氏の明智家の出で室町幕府の直臣だったという説で語られることも多いのですが、出自について信憑性のある資料はありません。

明智氏は美濃国の名門で守護を務めた清和源氏の末裔でもある土岐氏の支族で、土岐明智氏といいます。
なので美濃国に明智氏が存在したことは間違いが無いのですが、光秀が本当にそこの子なのかがよく分からないというわけです。

明智光秀が歴史の表舞台に出てきたのは、織田信長が美濃国を奪取した後。足利義昭が信長に対し、上洛して自分を征夷大将軍に就けるようにと接触を持った頃。足利義昭と織田信長の仲介者として明智光秀が登場します。

その後は、本国寺の変にて三好三人衆が足利義昭の宿所である本国寺を襲撃した際には光秀も義昭の下で防戦していたり、信長軍が撤退戦を行った金ヶ崎の戦いでは羽柴秀吉と共に殿軍を務めたりと、光秀は足利と織田の両者に仕える立場をとります。

次第に信長の数々の戦に参加するようになり、中でも有名なものが、比叡山の焼き討ちにて光秀は中心的な役割を担います。
この功績から近江に領地を得ると、光秀は坂本城の築城に入るなど、織田信長家臣として立場が明確になってゆき、信長と足利義昭が抗争を始めると、完全に信長の直臣となっています。

天正年間に入っても、光秀は石山本願寺との戦いや武田との長篠の合戦に参加していましたが、ここで丹波国の攻略を任されます。

光秀は丹波攻略を行いながらも、平行して石山合戦や雑賀攻めなど数々の戦に従軍。そして天正七年、ついに丹波攻略に成功しました。
この功績により光秀はその丹波国を加増され、元の領地と合わせて34万石を持つようになりました。
その後も、織田家の主力の一人として尽くします。


そして、天正十年六月二日、光秀は本能寺の変を起こします。

このとき毛利攻めを行っている羽柴秀吉の援軍を命じられて軍を整えていた光秀、そんな光秀の軍を検分するために少数で京の本能寺まで出てきた信長。

六月二日というから新月の闇の中、光秀の大軍勢は信長が百人ほどの供と居る本能寺を襲撃して殺しました。


織田の主力が各地に遠征している隙に中央で信長と嫡男の織田信忠を葬った形の明智光秀でしたが、後が続きません。
味方になる勢力が少なく、活発に工作を行う間も無いまま、わずか十日で戦場から戻ってきた羽柴秀吉の軍勢との対決を強いられました。
京の西、山崎での戦いで秀吉に敗れた光秀は、敗走中に落ち武者狩りに遭って動けなくなり、自刃したと伝えられています。


なぜ光秀が本能寺の変を起こしたのかは判っていません。
日本史の重要ポイントとなる大事件であるだけに、この謎は歴史家や戦国好きにとっては大好物で、様々な説が提唱されています。

・あまりにも信長が手薄だったので衝動的にやってしまった説
・徳川家康の接待役をクビになって恨んでいた説
・長宗我部との工作を無にされて恨んでいた説
・信長からのイジメに堪えかねていた説
・秀吉が裏で糸を引いている説
・足利将軍が裏で糸を引いている説
などなど。