伊能忠敬とは
 
 
伊能忠敬は現在の千葉県香取市佐原、当時の佐原村の商人でした。
佐原は人口五千人規模の大きな村でしたが、伊能は学も商才も備えており、36歳で佐原の名主になっています。

伊能忠敬は49歳で長男の景敬に後を譲り、隠居の身となりました。すると翌年、50歳にして天文暦学を学ぶために江戸へ移住したのです。

江戸に出た伊能は、19歳年下で幕府天文方を勤める天文学者の高橋至時(よしとき)に弟子入りをしました。
当時の天文暦学を志す者、最初は中国の天文暦学書からといわれましたが、伊能は佐原に住んでいた頃に習得済みだったため、飛び級スタートだったといいます。

師の高橋至時そして弟子の伊能忠敬には、正確な暦を作るという目標がありました。それにはまず、地球の大きさを知らねばなりません。どうすればよいか。それには緯度1度の長さが分かれば、地球全体の大きさを算出できると考えました。
そこで伊能忠敬は、自宅のある深川から幕府天文台のある浅草までを歩いて距離を測り、そこから計算して緯度1度の長さを割り出しました。
ところが師の高橋至時からは、その距離では短すぎるとダメ出しされてしまいます。高橋曰く、江戸からなら蝦夷地辺りまでの距離を測らねば正確な結果にならないとのこと。
そこでこの師弟、北のロシアに備えるために蝦夷地の地図を作るという名目で、蝦夷地までの距離を測る許可を幕府から引き出したのです。

伊能忠敬55歳、初めての測量の旅に出ました。随員は弟子や助手など5名。彼らは蝦夷地(北海道)の函館へと渡り、蝦夷地南部の海岸線を測量しました。
伊能は59歳の年までに4度の測量の旅に出て、東海から東北までの東日本の形を精巧な地図として描き上げたのです。

ここまで幕府は許可だけ与えて伊能忠敬の自腹で測量をさせていたのですが、とうとうこの地図の価値を理解したようで、以降の測量は幕府が費用を出すことになりました。

最終的に72歳で10度目の測量を行い、伊能忠敬は全国を回りきりました。そして、その測量結果を精密な地図へと落とし込んでいた翌1818年、伊能忠敬は73歳で亡くなりました。

伊能の死は3年間、弟子たちによって隠されました。そして3年が経った1821年、『大日本沿海輿地全図』と呼ばれる精密な日本地図が完成し、幕府に上納されました。弟子たちが伊能の死を隠したのは、この地図完成の偉業を伊能忠敬の手柄としたかったから。その3ヶ月後に伊能の死は公表されました。