臼井城跡を訪ねる

 

 臼井城跡 (2019/1/19撮影)

千葉県佐倉市の京成臼井駅。


駅北側の住宅地に向かって坂を登っていき、登りきるとすぐ下り坂。車通りの多い道路を渡ってまた上り坂を登っていくと、 「臼井城跡」と書かれたほぼ空き地のような公園の入口が見えてきます。


城址ですので、もちろん城はありません。入口を入ってすぐのちょっとした広場が二の丸が在った場所です。


空堀を渡す通路を渡ると、本丸跡に着きます。



木々のすき間からは、印旛沼が見えています。


城跡としてはこれだけです。 ただこれだけですと、臼井城はただの小城のようですが、じつはすごい戦歴を持つ城なのです。
北側は印旛沼に囲まれ、南に谷を持つ地形に建つこの臼井城は、室町時代に存在しました。


一四七一年、千葉孝胤が守る臼井城にあの太田道灌の弟である太田資忠が攻め寄せました。 七ヶ月におよぶの籠城戦の末、城方が打って出て激戦となります。 結果的に城は落ちるものの、その戦闘で攻め手の太田資忠は討ち死にしました。


現在、城址の西側に太田資忠の墓が建っています。図書助という官位でしたので「太田図書之墓」と記されています。




時は下り一五六六年、当時は千葉家の家臣である原胤貞が守る臼井城に、『軍神』上杉謙信が攻め寄せました。 しかも上杉軍1万5千に対し、臼井城は約2千、援軍は北条家からの松田康郷率いる150人ほどであったといいます。

小城と思って一気呵成の上杉勢に落城寸前の臼井城。 ここで臼井城方軍師の白井入道浄三は、城兵を三軍に分けて城から打って出る波状攻撃を敢行、上杉勢を痛撃して城に引き上げました。
翌日、雪辱を果たすべく攻め寄せる上杉勢に対し、城方は城壁を崩してその多くを下敷きにしました。 ひるんだ敵軍に向けて城方は総攻撃を敢行、上杉勢に大打撃をあたえたのでした。




臼井駅の南側、一夜城公園に『上杉謙信公 一夜城史跡』と刻まれた碑が建っています。



臼井城方の波状攻撃にて第三軍を率いた松田康郷は、赤備えで獅子奮迅の猛攻を見せ、上杉本陣に迫ったといわれます。 以来、松田康郷には「赤鬼」の異名が付くわけですが、この公園が本陣であれば、赤鬼は臼井駅あたりまで出てきて暴れまわったのでしょうか。


↑ 碑の裏側には「謙信一夜城の由来」が刻まれています。 


この敗戦ののち、上杉謙信は引き上げていきました。
専門の学者の説によると、上杉謙信の生涯戦績は『43勝2敗25引き分け』です。 軍神に相応しい好成績ですが、たった2敗のうちの1つが、この臼井城の戦いです。
上杉軍引き上げの結果、関東の領主たちがのきなみ北条に寝返ったため、上杉謙信は関東での足場を失います。
臼井城での退却が大きな敗戦だったことが分かります。