瓜生外吉とは
 
 
加賀藩支藩の大聖寺藩(だいしょうじはん)に生まれた瓜生外吉は十歳の頃に明治維新を迎えました。

明治五年、海軍兵学校の前身の海軍兵学寮に入った外吉は、明治八年からアメリカへ留学し、アメリカ合衆国海軍兵学校に入学します。ここを明治十四年に卒業した外吉は、帰国して帝国海軍中尉として任官しました。

練習艦の分隊長から始まり、数々の艦艇へと配属されてゆき、やがては巡洋艦の副長、砲艦の艦長へと昇格していきます。
明治ニ十四年には大佐へと昇進し、戦艦「扶桑」の艦長となりました。

明治三十年、巡洋艦の「松島」「厳島」の接触事故の責任を問われ、軽禁錮3か月の判決を受けるという躓きもありましたが、復帰後には海軍少将に昇進、ここで日本は日露戦争へと突入してゆきます。

瓜生外吉少将は連合艦隊の第4戦隊司令官として日露戦争の緒戦となった仁川沖海戦で勝利し、戦争の勝利を決定づけた日本海海戦でもバルチック艦隊殲滅への一翼を担いました。

戦後には、男爵の爵位を授けられ、大正元年には海軍大将に昇進という華々しい経歴をもって大正ニ年に予備役へと編入されました。