豊臣秀吉とは
 
 
世に出るまでの秀吉のことは実はよく判っていません。父親は木下弥右衛門という名で、足軽だとも農民だともいわれていますが、身分が低くて出生の記録が残っていないのです。

秀吉が天下人となってから書かせた伝記に「母親が公家の血筋」と記されたり、同じく天下人となってから「秀吉の兄弟姉妹」と噂された人物を呼び出し殺したといった話も伝わっていたりと、秀吉自身もその出自を隠して家格を高く見せようとしていたようです。
秀吉の後に天下を獲った徳川家康も源氏姓を買っていたように、家柄が重んじられる時代ですから、名門の者まで従わせてゆくには自身の家柄にそれなりの由緒がないと説得力がなかったのかもしれません。現代の感覚では、下層からのし上がって天下を獲ったからこそ秀吉は愛されているのですが。


若き頃の秀吉は木下藤吉郎と名乗り、今川氏の直臣飯尾氏の家臣の松下之綱に仕えていたと伝わります。
この今川家の家臣の家臣の家臣という立ち位置に絶望したのか、織田信長の実力主義を知って希望を感じたのかは分かりませんが、秀吉は辞して去りました。

1554年頃、秀吉は織田信長に小者として仕えるようになりました。気が利き、機転が利くことを示し続け、1561年には足軽組頭になっていました。
この頃に同じ長屋のご近所さんだった『ねね』と結婚。また、同じく長屋には前田利家がいて、仲が良かったといいます。

当時の織田家は美濃の斎藤家と事を構えていました。この美濃をめぐる戦にて諜報・調略を尽くした秀吉は功を重ね、信長配下の中でも有力武将として認識されていきました。

美濃を攻略した信長の次なる敵は越前の朝倉氏と近江の浅井氏です。はじめ浅井氏は信長と同盟を結んでいました。しかし朝倉討伐の軍を起こした1570年のこと、朝倉との関係が深かった浅井が織田を突然裏切り、織田軍を急襲しました。退却となった織田軍ですが、秀吉の部隊は殿軍を引き受けて信長を守り抜きました。
その後、織田信長は浅井・朝倉家を滅ぼしました。そこでも秀吉は大功をあげており、1573年に近江の長浜城を与えられ、ついに一城の主となりました。
また、秀吉は名を羽柴秀吉と名乗りました。これは信長の重臣である丹羽長秀と柴田勝家から一字づつ頂いたもので、成り上がりの秀吉が古参の二人に目の敵にされないように気を配ったものだといわれています。

尾張と美濃を領有したときから織田家は東と北で武田信玄や上杉謙信ら武神クラスの大名とも国境を接するようになり、西は機内にあって京を狙う勢力に対応をしなければならなくなりました。それらは信長包囲網という形で協力するようになり、織田家家臣の秀吉も苦難の戦を続けていました。
そうしているうちに武田信玄も上杉謙信も亡くなり、信長は包囲網を打ち払いました。機内を征服した信長が天下人となったのです。(当時の天下とは機内一帯のことを指しました)

ここまで織田信長という人物は、ほとんどの戦において自ら出撃し、自ら号令を下して戦ってきました。それが方針転換します。
四つの方面軍を組織して織田家の四人の重臣を指揮官とし、それぞれを京から四方に派遣して日本全国を制覇しようというのです。羽柴秀吉はその四人のうちの一人に任命され、中国地方への侵攻を命じられました。

1582年、秀吉は毛利方の備中高松城を水攻めにしていました。そこに舞い込んできたのが主君の織田信長が同僚の明智光秀の謀叛により本能寺で殺されたという急報でした。
秀吉には毛利より先に本能寺の変を知った運があり、物事の優先順位が解る人でした。
秀吉は信長の死を悟られぬよう、高松城主の清水宗晴の切腹と引き換えに講和するという強気の条件を毛利に飲ませると、凄い速さで全軍を京へと返しました。
一方の明智光秀は戦闘中の各方面軍がすぐには戻ってこれないと予測し、その間に織田家の家臣から自分に味方する者を集め、織田家の敵対勢力と通じることで勢力を保とうとする目論みでした。しかし本能寺の変からたったの十日後、京の西の出入口である山崎に秀吉軍が布陣。味方を得ぬまま決戦に引きずり出された明智光秀は討ち滅ぼされました。

織田家重臣が集まって織田の後継を決めた清須会議、そして信長の葬儀と、真っ先に戦地から駆けつけて信長の仇を討った秀吉の発言力は織田家中で最も強くなっていました。
当然のように重臣たちがいがみ合うようになり、秀吉は古参の筆頭だった柴田勝家を討ち滅ぼしました。
これ以降は信長の志も領地も、実質羽柴秀吉が継いでいくことになりました。

秀吉は大坂に大城郭を建造し、そこを本拠として全国統一を目指します。
まずは機内でも支配が至っていなかった紀州を攻め、四国、九州、関東、奥州と平定してゆき、ついに日本全土を統べる天下人となりました。

1585年に関白、翌年に太政大臣となり豊臣姓を賜りました。以降は豊臣秀吉と名のります。

素性の知れぬ一介の民から天下人にまで上り詰めて日本の戦乱を治めた秀吉は、次は海外に目を向けるようになりました。
そして主に西日本の大名を召集して、当時の支那を支配していた明を攻める『唐入り』を決行したのです。(徳川家康に止められたため、秀吉自身は海は渡りませんでした)

日本軍は北九州から海を渡り、朝鮮半島を通って明へと攻め込む作戦です。通り道となる朝鮮に対しては、味方をするのならよし、敵対するならついでに倒すという態度で望みました。 すると、朝鮮は明の属国でしたので当然迎撃してきます。しかし、当時の日本軍は戦国時代を生き抜いた猛者たちで構成されていますから、朝鮮軍を鎧袖一触。一ヶ月ほどで首都の漢城を攻略し、約三ヶ月で明との国境に近い平壌まで落としてしまいました。
ここで明軍が襲来。日本軍はこの明軍の進撃を抑えましたが、日本側も疲弊したということで和平の道を探ります。
そうして一度は引き上げた日本軍でしたが、和平の際に日本と明で約束した条件に齟齬があり、再び海を渡っての出兵となりました。この派兵でも日本軍は明・朝鮮連合軍を圧倒していましたが、なんとここで秀吉が亡くなってしまいました。秀吉の死を受けて、日本軍は朝鮮半島から総撤退しました。

豊臣秀吉の死は1598年8月18日のこと。
死期を悟った秀吉は呼び寄せた諸大名の前で、幼い跡取りの後見を徳川家康に頼んで亡くなったといいます。