豊臣秀頼とは
 
 
豊臣秀頼は、天下人となった豊臣秀吉の後継者。
子にめぐまれなかった秀吉は晩年、後継者問題を憂いており、姉の子である秀次を跡取りに据えていました。 そんな時期に生まれた実の子である秀頼を秀吉が跡取りにしたくなるのは、良し悪しはともかく分かる話です。
理由は諸説ありますが、秀次は強制的に出家させられて高野山に蟄居となった後に切腹となりました。 秀次の子女や妻妾もほぼ皆殺しとなり、秀頼の秀吉の後継者としての地位が確立しました。

秀吉の死後、五大老のひとりで秀吉の盟友でもあった前田利家が死去すると、同じく五大老の徳川家康が政権の主導権を握ります。
各地の大名を味方に付けた家康は、関ヶ原の戦いで豊臣方に付く諸大名に勝利して力を絶大なものにし、 さらに大阪冬の陣、大阪夏の陣で豊臣家を滅亡に追い込みます。

大阪夏の陣にて燃え落ちる大阪城と共に、秀頼も命を落としました。



武田勝頼や三国志の劉禅など、家を滅ぼした2代目というのは、ボンクラとして描かれることが多いものです。 豊臣秀頼も戦国物の漫画などでは、ナヨッとした世間知らずな子供のように描かれたりしています。
しかし享年は23歳、資料によっては大柄な体格の秀頼は、帝王学を備えた威風堂々とした人物であり、 京都二条城で秀頼との会見を行った徳川家康はその素質に気付き、従属させるのではなく滅ぼすことを心に決めたという説もあります。