|
|
|
|
東郷平八郎とは |
|
|
|
|
東郷平八郎は幕末の薩摩藩に生まれました。生誕地は鹿児島の加治屋町です。
加治屋町といえば、西郷隆盛・大久保利通・大山巌なども住んでいた大人物排出町です。
そんな先輩たちの活躍で倒幕を果たした日本は明治時代に突入、東郷平八郎は海軍で出世を重ねていきました。
明治26年のこと、現在の日本と同じようにアメリカの意向を強く受けた憲法を押し付けられていたハワイ王国の女王は、以前の憲法をベースとした新憲法を発布する動きを見せました。すると、アメリカ人入植者と海兵隊がクーデターを実行してハワイを乗っ取り、傀儡の臨時政府を建てたのです。
このとき日本は邦人保護を理由に巡洋艦「浪速」と「金剛」を派遣、この「浪速」の艦長が東郷平八郎でした。
浪速と金剛はホノルル港に停泊していたアメリカの戦艦「ボストン」を挟むように停泊し、ハワイ島内のアメリカ人を威圧しました。式典の日に依頼された祝砲も拒絶し、無言の牽制を続けました。
約半年のあいだ睨みをきかせたところで撤退命令を受けて引き上げると、その後ハワイはアメリカに併合されました。
明治37年7月25日、日清戦争の宣戦布告の7日前ながら、清国への最後通牒の期限は切れていたこの日、清国兵1200人を輸送していたイギリス商船『高陞号(こうしょうごう)』を東郷平八郎の浪速が捕捉しました。
東郷は国際法の手順に沿って停戦を促した上で、従わなかった高陞号を撃沈しました。
これにはイギリス国民から非難の声が上がりましたが、イギリスの国際法学者が日本の手順に違法行為はないと明言したことで沈静化しました。
明治37年、日本はついにロシアとの日露戦争に突入しました。連合艦隊司令長官となっていた東郷は、第一艦隊旗艦の『三笠』から全軍の指揮を執りました。
|
↑ 三笠公園の戦艦『三笠』 |
当時のロシアは世界二位の軍事力を持っており、海軍は広い国土の東と西に分けて戦力を展開していました。その東西の艦隊が集結する前に各個撃破することが、日本海軍の勝利への絶対条件です。
連合艦隊は旅順を攻める陸軍と連携してロシア旅順艦隊を撃破、さらにウラジオストク艦隊を撃破して、大陸を南からぐるりと回航してくるバルチック艦隊を待ち構えました。
明治38年5月27日、日本の連合艦隊とロシアのバルチック艦隊は日本海にて艦隊決戦を行いました。
この戦いで東郷平八郎の指揮は冴えにさえ、連合艦隊の一方的な完勝に終わります。
日本海海戦でのロシア側の損害は戦艦6隻、海防戦艦2隻、巡洋艦4隻、水雷艇5隻、装甲巡洋艦1隻、輸送艦3隻が撃沈もしくは自沈した。
さらに戦艦4隻、水雷艇1隻、病院船2隻が降伏し、司令官二人も捕虜となった。
その他7隻が中立国の港へ逃げ込んで拘留された。文字通り壊滅です。
対する日本の連合艦隊の損害は水雷艇3隻のみというパーフェクトゲームで、東郷平八郎の名は世界にとどろきました。
|
|
|
|
|