武田信義とは
 
  平安時代後期の大治3年(1128年)、甲斐源氏の源清光の次男として生まれたのが武田信義です。

平治の乱での敗戦以来、源氏には不遇の時期が続いていました。一方の平氏は平清盛が武士ながら太政大臣となり、朝廷を牛耳る勢いで権力を振るっています。
専横を極める平氏に対し、以仁王は密かに平氏追討の令旨を各地で息を潜める源氏の武士へ向けて発しました。これに呼応したのが木曽義仲であり源頼朝であり、武田信義も兵を挙げたのでした。

武田信義は甲斐国、南信濃、駿河の平氏勢力を打倒して、京の平氏中枢に向けて武威を示しました。
一方、伊豆で挙兵していた源頼朝は石橋山の戦いで敗れて房総半島へ逃亡。そこで再起を図ると、味方する豪族を糾合しながら関東を平定してゆきます。この源頼朝の勢力を武田信義は支援しました。

これらの東方の動きに危機感をおぼえた京の平氏は、平維盛が率いる討伐軍を差し向けました。これを武田信義と源頼朝の連合軍は富士川の戦いで破ったのでした。

同じ頃に挙兵していた木曽義仲は京へと攻め入り、都の平氏勢力を追い散らします。これによって平氏は西国へ落ち延び、木曽義仲の軍が京に駐留する情勢となりました。
ところが、この木曽の兵の質が悪く、京で乱暴狼藉を繰り返したため、京の治安は平氏が居た頃よりも悪くなったといいます。
その後の源頼朝の功績としてよく知られる木曽義仲の討伐、さらには一ノ谷の戦いから壇ノ浦の戦いまでの平氏を滅ぼす一連の戦にも武田信義の軍は参加していました。

やがて外の敵が片付くと、始まるのは内輪の争いです。前線に立って散々働いてきた弟の源義経や源範頼を平和になった途端に危険視して処断した源頼朝が、同格の武家の棟梁である武田信義を放っておく訳がありません。
しかも、頼朝を支えているのは、その後に頼朝挙兵の頃から支えていた恩顧の御家人たちを片っ端から難癖つけて滅ぼし、主君の頼朝の血筋をも有名無実化した北条氏です。武田信義が棟梁として並立していくには、あまりにもヤバい連中です。
現に信義の息子の一条忠頼が鎌倉の宴会に招かれて殺されるということも起こりました。

信義は災いを避けるため、鎌倉殿の一御家人として存続してゆく道を選びました。
およそ四百年の後、戦国時代を彩るあの武田信玄の活躍があるのは、このときの信義の選択があってのことなのかもしれません。