武田信虎とは
 
 
武田信虎が生まれた明応三年(1494年)、甲斐国は武田信昌の長男の信縄と次男の信恵による家督争いに明け暮れていました。

信虎四歳のとき、東海地域で大地震が発生しました。甲斐国でも災害による被害は大きく、信縄と信恵も兄弟で争っている場合ではないと悟り、家督は兄の信縄が継ぐことで合意しました。

永正四年(1507年)に信縄は亡くなり、嫡男の武田信虎が家督を継いで甲斐国の国守となりました。ところが、かつて父と争っていた叔父の信恵がこの相続に異をとなえ、甲斐は武田信虎と信恵の抗争の場となりました。
しかしこの抗争は、父と叔父のときのようにダラダラと慢性的に続くものにはなりませんてした。武田信虎には軍事の才能があったのです。信虎は勝山城の戦いで信恵方に大勝し、信恵も信恵方の国人衆も攻め滅ぼしてしまったのです。

お家をまとめた信虎は、敵対的な国人衆の征伐を行います。その際、敵対する国人衆が隣国である駿河の今川家を頼ったため、一時は今川家とも険悪な関係になったものの、信虎は巧みな外交で和睦におさめました。

甲斐国内を安定させた信虎は国外への侵攻を考えるようになります。信虎の採った基本戦略は、東の北条家と対立し、北条の敵である上杉家と手を組むものでした。北条と敵対すると、北条と同盟を組んでいる今川家もセットで敵に回ります。
さらに信虎は北の信濃国への侵攻も目論んだので、信濃南部の諏訪家とも対立姿勢をとりました。
しかし、こうした周囲にことごとく喧嘩を売って戦いに明け暮れるやり方は、甲斐の国人衆の抵抗を生んで離反者が出たため、信虎はこれら敵対国との融和政策に切り換えました。中でも今川家とは、家督争いの際に支援した今川義元が家督を継いだことから、同盟関係となりました。

天文十年(1541年)のこと。武田信虎は今川義元と会うために駿河へと向かいました。
すると、信虎が甲斐を留守にしたこのタイミングを見計らって、息子の武田晴信(のちの信玄)が武田家家臣たちに支持されて立ち上がりました。春信は甲斐と駿河の国境を封鎖し、信虎を甲斐から追放したのです。
とつぜん帰る地を失った信虎は、今川義元の元に身を寄せるしかありませんでした。信虎は「無人斎道有」と名乗り、隠居することになります。

弘治3年(1558年)頃、信虎は生活の拠点を駿河から京へ移しています。
京での信虎は将軍足利義輝に近侍し、御相伴衆という身分を得ています。他の御相伴衆を見回せば、九州の大友義鎮、中国地方の毛利元就、隆元、輝元、美濃の斎藤義龍、駿河の今川氏真といった顔ぶれが揃っていたのですから、中央政府の立派な役職に就いていたといえます。

永禄八年(1565年)、京で「永禄の変」とよばれる政変が起こります。将軍の足利義輝が三好三人衆によって殺されたのです。
この時の信虎の所在は不明ですが、その二年後の永禄十年には京での存在が確認されています。

元亀四年(1573年)、信虎を甲斐から追放した後、信濃・駿河を攻略して大国の大名に成長していた息子の武田信玄が死去しました。それを機に翌年、ついに信虎は甲斐へと戻ります。
信虎の息子であり信玄の弟でもある武田信廉が居城としていた高遠城に移り住みました。
そして、武田家を継いでいた武田勝頼とも対面しました。

甲斐に戻って間もない天正二年(1574年)、武田信虎は亡くなりました。享年81。
長い追放生活を送った武田信虎でしたが、息子の信玄より長生きしたことで祖国の地を再び踏むことができ、また八年後にせまっていた武田家滅亡を見ることなく終わりをむかえたことは、救いであったのかもしれません。