武田勝頼とは
 
『甲斐の虎』こと武田信玄の四男として生まれた武田勝頼は、諏訪御料人とよばれる側室の子でした。

信玄には正室の子で長男の武田義信がおりましたが、信玄暗殺の密謀が発覚して幽閉され自害しました。次兄の竜宝は盲目のために出家、三兄の信之は夭逝ということで、四男の勝頼が信玄から後継者に指名されました。

勝頼は十八歳で初陣を飾ると、三増峠の戦い、三方ヶ原の戦いなど、父信玄の歴戦に付き従って経験を積みます。

元亀四年(1573年)、武田信玄が亡くなり、勝頼がその後を継いだ時点での領地は、甲斐国、信濃国、駿河国、上野国西部、飛騨国東部、遠江国東部と広域でした。
勝頼は当主となって早々に美濃国の東部に侵攻、さらには信玄が落とせなかった遠江国の高天神城を陥落させて東遠江を平定し、武田家の最大版図を築きました。

天正三年(1575年)、武田勝頼は先年徳川方へ寝返った奥平親子を討伐するため、三河国の長篠城を攻めました。しかし、長篠城の抵抗が思いのほか激しく、落とせぬまま日数を費やしてしまいます。そこに、織田信長・徳川家康の連合軍が長篠城の救援に到着し、設楽ヶ原において武田軍との決戦に至ります。
この長篠の戦いで武田軍は大敗北を喫しました。土屋昌次、馬場信春、山県昌景、内藤昌豊、原昌胤、真田信綱・昌輝などの武田家を支えてきた歴戦の名将たちを戦死させてしまう痛恨の敗戦となったのです。

複数の重臣たちを失う敗戦は父の信玄も経験しており、それだけで国を滅ぼすことにはならないはずなのですが、この出来事を境に勝頼率いる武田家は劣勢に立たされてゆくことになります。

天正七年(1579年)、謙信亡き上杉家で御館の乱と呼ばれる内乱が起こりました。これは謙信の跡目をめぐる争いで、介入した武田勝頼は一方の当事者である上杉景勝に肩入れしました。そんな上杉景勝が内乱に勝利したまでは良かったものの、敗死した上杉影虎というのが北条氏政の弟を謙信が養子にしていた人物だったことから、北条家も武田の敵にまわってしまいます。

徳川家康の治める三河国と西遠江は、西が同盟を組む織田信長、北と東が武田領という位置に在ります。活路を求める家康は、武田の東遠江へと活発に侵攻してくるようになりました。
織田・徳川・北条に三方からじわじわと攻め続けられる状況に、勝頼は織田家との和睦を模索しましたが、その兼ね合いで援軍を送れないまま高天神城を落とされたことで、武田は遠江国から後退しました。この高天神城の失陥は領地や堅城を失ったことも痛かったのですが、それよりも、多くの人の目に武田が高天神城を見殺しにしたように映ったことが、悪い方向へ効いてきます。ここから、国人衆の武田からの離反が目立つようになっていったのです。
さらに、朝廷を囲う織田信長は正親町天皇に働きかけ、勝頼を朝敵と認定させました。これで武田氏討伐の大義名分を得ると共に、勝頼が目指していた和睦提案を無視します。

翌天正十年(1582年)、木曽義昌が武田を裏切りました。木曾は武田の親類衆にあたる家柄です。勝頼は木曽討伐のために武田信豊を大将とする軍勢を派遣しました。
しかしこの頃には、木曾だけではなく親類衆の穴山信君もまた徳川家康と内通していました。穴山信君は武田信玄の妹を妻としている人物で、武田の中枢にある者までが離反していたことになります。

これを機に織田信長主導のもと、反武田勢力が多方面から武田領へと侵攻を開始しました。信長の嫡男である織田信忠が西から信濃国へ、徳川家康が駿河国へ、北条氏直が東から甲斐国へと攻めかかります。
さらに、このタイミングで致命的な災難が巻き起こります。織田軍の侵攻が始まった二月十四日に浅間山が噴火したのです。

朝敵の認定に周辺国からの同時侵攻、重臣の反乱そして自然災害、もう各地の豪族たちは戦どころではありません。侵攻を受けた各地で武田方の将兵の逃亡や寝返りが続出し、組織的な防衛ができないまま、武田領内は侵攻軍の草狩り場となっていきます。

三月三日、勝頼は前年から本拠としていた新府城を焼いて脱出を計ります。そして、信玄の代からの重臣である小山田信茂の岩殿城へ移ろうとしました。
しかし、勝頼を迎える前に、この小山田信茂もまた変心し、織田方に投降することを決意します。そうなると、勝頼に来られては迷惑とばかりに、勝頼を追い払ってしまいました。

もはや行き場を失った勝頼たちは天目山棲雲寺を目指しましたが、その途上で織田の属将である滝川一益の手勢が迫ったことで万事休す、嫡男の信勝や正室の北条夫人らと共に自害し、甲斐武田氏は滅亡しました。
享年三十七歳