高橋是清とは
 
 
嘉永七年(1854年)、高橋是清は江戸で生まれました。

幕末期となった慶応三年、高橋は横浜のアメリカ人医師ヘボンの私塾で学んでいたことから、藩命を受けてアメリカへ留学することになりました。
ところが、横浜の貿易商のアメリカ人に留学費を着服され、留学先でも騙されて奴隷にされる壮絶な環境で英語能力を身に付けました。

明治元年(1868年)に高橋は帰国を果たしました。時代は明治に変わっており、アメリカで知り合った森有礼の薦めで文部省に入省し、英語の教師として大学予備門や進学予備校で教壇に立ちます。
この頃の教え子の中に俳人の正岡子規や日本海海戦でバルチック艦隊を撃滅することになる秋山真之がいたといいます。
その後も文部省だけではなく、農商務省の官僚としても働き、特許局の初代局長にも就任しました。

そんな高橋は明治二十二年、官僚を辞めてペルーでの銀鉱事業を手を出します。ところがこの鉱山がすでに廃坑のため失敗、帰国してホームレスとなります。

再び知人の紹介で日本銀行に入行した高橋是清は、日露戦争が始まった頃には日銀副総裁にまで登っていました。
高橋は日本の戦費調達のために戦時外債の公募で同盟国のイギリスに向かいました。
しかし当時の世界中が、新興国の日本では大国ロシアには勝てないと思っていたため、投資家の腰は重かったといいます。高橋は日本の返済能力や返済方法を具体的に示し、戦争で一歩も引かぬことを強調して投資家や銀行を説得、戦費の調達に成功しました。
そんな高橋の主張通り日本は日露戦争に勝利し、高橋は明治四十四年(1911年)に日銀総裁に就任しました。

大正二年(1913年)、第1次山本内閣の大蔵大臣に就任し、政党である立憲政友会に入党しました。そして原敬首相の暗殺事件の後、財政政策で度々日本を救ってきた高橋是清は、第二十代内閣総理大臣に就任しました。
高橋是清という人は、誰かの下で役割を与えられると国を救うほどの活躍をするのですが、トップに立ったり個人で動くとどうにも上手くいかないようです。
この高橋内閣も政界の混乱を抑えきれず、半年で潰れてしまいました。

政権崩壊後も政友会総裁として政争を戦い抜き、後を田中義一に譲って政界引退した高橋是清でしたが、悠々自適の余生には入れません。昭和二年(1927年)に昭和金融恐慌が発生すると、高橋の経済的手腕を求められて蔵相に就任したのです。

高橋は債務者への支払猶予措置を行うと共に、預金を失う不安から銀行へ殺到した国民に対し、片面だけ印刷した急造の二百円札を大量に発行して銀行の店頭に積み上げて見せて、預金者を安心させて金融恐慌を沈静化させました。

さらに昭和六年の犬養毅組閣でも蔵相に就任し、金輸出再禁止、史上初の国債の日銀引き受けによる政府支出の増額、時局匡救事業で、世界恐慌により混乱する日本経済をデフレから世界最速で脱出させました。

昭和七年、犬養首相らが暗殺された五・一五事件が発生しました。蔵相の高橋は次の斎藤実内閣の成立まで総理大臣を臨時兼任しました。さらに斎藤実内閣と岡田啓介内閣でも蔵相に就任しました。

世界恐慌に立ち向かった高橋は景気を上げる政策を続けてきましたが、その副作用としてインフレーションの発生が予見されました。当然これを抑えようとする高橋は軍事予算を抑制しようとします。
一方で軍部は景気の考慮などしません。陸海の軍部はそれぞれ四千万円の増額要求をしてきます。高橋はこの要求に対し、満額の増額を認めませんでした。これによって軍の恨みを買います。

昭和十一年(1936年)年二月二十六日、二・二六事件が発生しました。陸軍の約二十名の青年将校が約千五百人の兵を率いて起こしたクーデターです。
 ・斎藤実内大臣(海軍)死亡
 ・岡田啓介首相(海軍)身代わりが死亡
 ・鈴木貫太郎侍従長(海軍)重傷
 ・渡邉錠太郎教育総監(陸軍)死亡
主に海軍の高官が襲われたのですが、そのついでに反乱部隊は、軍の予算を渋った高橋是清蔵相の赤坂の自宅をも襲撃しました。六発の銃弾で胸を貫かれ高橋は暗殺されました。
このとき高橋是清は八十三歳でした。