西郷隆盛とは
 
 
1853年ペリー率いる黒船艦隊が浦和にやって来て日本に開国を要求した頃、薩摩の下級役人だった西郷隆盛は薩摩藩主の島津斉彬に取り立てられ、御庭方という役職に就きました。

御庭方の仕事は諜報員です。主君の斉彬から直接指示を受け、他藩のキーマンとの関係を築いたりして情報を収集するのです。
この仕事で構築した人脈が、後の討幕活動においての西郷の顔の広さとなります。

主君の島津斉彬が急死すると、同じ時期に幕府の大老へと就任した井伊直弼による安政の大獄と呼ばれる大弾圧が始まりました。幕府への不平分子と一橋慶喜を将軍へと推し進める一橋派が主な弾圧の対象でした。無くなった主君の斉彬はバリバリの一橋派でしたので、その手先の西郷も追われることになりました。
同士の月照という僧侶を伴って京を脱出した西郷でしたが、月照を連れての逃避行に堪えられず、二人での入水自殺を図りました。
しかし、西郷は死にませんでした。入水後、すぐに平野国臣に助け上げられ、蘇生したのです。薩摩藩は西郷は死んだことにし、奄美大島に流して匿いました。

桜田門外の変で井伊直弼が死に、安政の大獄のほとぼりも冷めた頃、西郷は鹿児島へ呼び戻されました。薩摩藩の実権を握るのは島津久光です。
西郷は他人への好き嫌いがはっきりした人物で、島津斉彬と対立していたお由良の子の島津久光を嫌っていたようです。兵を引き連れて江戸へと押しかけて幕府に改革を迫るという方針について、久光から意見を求められた西郷はボロかすに駄目を出し、挙げ句には久光を田舎者呼ばわりしました。これでよく処罰を受けなかったものですが、これ以降久光は西郷を嫌い続けます。
その後も西郷の命令違反は久光の怒りを買い、今度は正真正銘の島流しにされてしまいました。


盟友の大久保利通の働きかけで西郷が復帰したのは文久四年、幕末に向けて世情はきな臭くなってきていました。攘夷の実行を画策する過激公家と、彼らを煽動する長州藩が京から追放されました。
さらに翌年の元治元年、京に潜伏していた長州藩士たちを新選組が襲撃して斬り捨てた事件をきっかけに長州藩兵が京の御所を襲撃したのです。
一橋慶喜に子分のように使われている会津藩と桑名藩が御所を守っていましたが、そこに西郷率いる薩摩兵が加わって長州兵を撃退しました。

長州藩のこの行為は公権力に弓を引いたとみなされ、幕府は威信にかけて長州を叩くことを決定します。これが第一次長州征伐です。司令官は尾張藩の徳川慶勝で、その大参謀に西郷隆盛が任命されました。
この時点での西郷は長州藩を叩きのめすことを考えていましたが、幕臣の勝海舟と話したことで考えが変わります。虎視眈々と日本を狙う外国勢力に隙を与えず日本を変革するには長州も必要で、安易に潰すべきではないと悟ったのです。
西郷は、長州藩の禁門の変での責任者たちの処分で済ませるように計らいました。

この頃から京都の政界は一橋慶喜が牛耳るようになりました。さらに幕府の十五代将軍となったことで、幕府も掌握します。これに対し薩摩は、長州藩との秘密同盟を結びます。薩摩側は西郷、長州側は木戸孝允が主導して結ばれた薩長同盟です。
このあと幕府は第二次長州征伐として長州への軍事侵攻を行いましたが、薩摩は参加を断りました。そして、表向きは中立を守り、裏では長州藩に新式武器の支援をしています。これにより長州藩が幕府軍に勝利し、倒幕の気運が高まってゆくことになります。

慶応三年、西郷隆盛と大久保利通を中心とした薩摩は、謹慎が明けた公家の岩倉具視や長州藩と共に本格的な討幕に乗り出します。宮廷工作を行い、ついには討幕の勅許をえたのです。
ところが同日、将軍徳川慶喜は大政奉還を行い将軍を降りてしまったのです。西郷たちは振り上げた拳の向け先を失ったのです。

大久保と西郷は諦めません。
幕府が各藩に配置した藩主を管理し、各藩の単位で藩主が統治するこれまでの仕組みの延長となる改革では欧米に太刀打ち出来ません。
税収が国に入り、中央集権国家として富国強兵を行うためには、幕藩体制を潰して根本的な改革が必要なのです。

慶応三年十二月、京の御所を守っていた会津藩と桑名藩を追い出し、薩摩・土佐・安芸・尾張・越前の兵が入ってきました。兵を指揮するのは西郷です。
これらの藩主と岩倉具視らの公家が集まり、小御所会議が行われました。
この会議に徳川慶喜は呼ばれていません。欠席裁判で、慶喜の領地召し上げと政界追放が決められました。さらに王政復古の大号令が出されて、幕府の廃止、征夷大将軍と摂政関白の廃止が決定しました。

一方、大坂城の徳川慶喜も衰えぬ政治力を発揮して政権担当の宣言を行い、新政府側の決定を押し返してきます。これに対し西郷は江戸に手下を送り込み、強盗や放火を行わせて、慶喜の手を煩わせるように工作しました。

そしてついに、徳川慶喜は兵を率いて京へ向かい、新政府軍との対決となりました。鳥羽伏見の戦いです。
兵力で圧倒する幕府軍でしたが、大久保利通 が朝廷から入手した錦の御旗を新政府軍が押し出すと、徳川慶喜は自分のために戦っている味方を放置して、船で江戸へ逃げてしまいました。
慶喜の実家の水戸家は勤皇の家で、慶喜自身も錦の御旗へは弓を引けなかったのです。

新政府軍は江戸へ向かいました。率いる西郷は武力で江戸に乗り込み、徳川を徹底的に叩きのめすつもりでしたが、幕臣の山岡鉄舟の賢明の説得を受けて、条件を付けての和平に切り換えます。
さらに西郷は勝海舟と会談して、江戸城の無血開城を実現しました。


時代は明治になりました。
明治政府は維新回天の立役者として西郷を重要視しますが、西郷自身はもう仕事をやりきったかのような態度です。さらには大久保利通や岩倉具視らの方針とも気が合いません。

明治六年、明治初年からの懸案である朝鮮問題で、西郷が自ら大使として朝鮮へ乗り込むことが決まりました。ところが、その後に帰国した岩倉具視使節団の面々の猛反対に遭います。岩倉や大久保は天皇の勅命を使ってまで西郷の大使派遣を中止に追い込んだことで、西郷は辞表を出して鹿児島へ帰ってしまいました。

鹿児島での西郷は私学校を開きました。英雄西郷の学校ですから、人が集まってゆきます。
政府としては、政府に不満を持って下野した西郷の学校に人が集まるわけですから、とうぜん警戒します。そこで政府は薩摩出身者のスパイを送り込みます。

私学校の生徒は、東京から帰郷して入学してきたスパイを怪しみました。そこで、その者を捕らえて探ってみると、電報を持っています。
この電報の内容は、
「ボウズヲシサツセヨ」
と書かれていました。
「ボウズ」とは西郷のことで、「西郷を視察せよ」という意味ですが、なぜか生徒は「西郷を刺殺せよ」と解釈したのです。
怒った生徒たちは政府施設を襲撃する暴挙に出ました。事態が西郷に知らされた時には既に取り返しのつかない状況でした。
西郷は学生たちや集まった薩摩藩士たちに担がれて兵を挙げました。大義名分は「東京へ政府の意思を質しに行く」です。西郷軍はまず熊本城を目指しました。
築城名人といわれた加藤清正が改築した熊本城はその真価を発揮することなく江戸時代を過ごしてきましたが、この西南戦争でついにその堅固さを証明しました。練度の高い侍集団である西郷軍を相手に、籠城する兵たちは援軍の到着まで守りきったのです。
西郷軍はここから撤退戦となり、増援を得た政府軍に押し込まれて壊滅状態となります。とうとう城山という地で完全包囲された西郷は、仲間の介錯によって死にました。
明治十年九月二十四日のことでした。