ペリーとは
 
 
江戸時代の日本は鎖国していたといわれますが、一部の国との交易は行っていました。
オランダとは250年間交易を続けており、毎年オランダから提出される『オランダ風説書』によって、幕府は世界の動向を知っていました。

嘉永五年(1852年)オランダは『別段風説書』を提出します。これによって、米国艦隊が翌年に日本へ来航することが幕府に知らされました。

翌年、本当に米国艦隊が開国を求めて日本へやって来ました。
「泰平の 眠りも覚ます 上喜撰 たった 四杯で 夜も眠れず」
と、黒船を見た日本人の驚きっぷりを歌った有名な歌がありますが、実はパニックになったのは状況を知らされていなかった下級の役人だけ。幕府の首脳は黒船の来航を知っていたのです。

この米国艦隊を率いていたのが、米国東インド艦隊長官のマシュー・ペリーでした。

嘉永六年四月、ペリーは手始めに琉球の那覇沖に艦隊を停泊し、武装兵を引き連れて首里城まで歩き回りました。

五月には小笠原諸島の領有を宣言します。
これには英国とロシアの抗議を受けて引っ込めました。

そして六月三日、ペリーは浦賀にやってきました。
六月九日にペリーと浦賀奉行の会見が行われ、米国の要求が幕府に伝えられました。

ペリーは将軍との会見を求めましたが、幕府は拒否しました。実はこのとき、将軍の徳川家慶は死の床にあったのです。ペリーは開国を求める米国大統領の国書を渡し、一年後に再び来ることを約束して引き上げました。

嘉永七年、ペリーの艦隊は再び来航し、日本と米国は日米和親条約を調印し、ついに開国となりました。

任務を終えたペリーは体調の不良から退任。
1858年に亡くなりました。
ペリーによる黒船来航を契機に日本は明治維新へと激動していきましたが、当のペリーは明治維新よりも前に舞台を降りていたのでした。