大山巌とは
 
 
大山巌は幕末期の1842年、薩摩国にて生まれました。
従兄にはあの西郷隆盛がいて、大山は15歳年上の西郷を兄のように慕っていたといいます。

1862年、寺田屋事件が発生します。
この事件は、薩摩藩の過激派藩士たちが幕臣を暗殺しようと画策していたところに島津久光が鎮圧のために家臣たちを突入させ、薩摩藩士同士での斬り合いに発展した事件で。若き大山巌も過激派として参加していたといいます。
大山は説得を受けて投降し、謹慎処分となりました。

大山が謹慎となって約一年後、薩摩では大事件が起こります。薩英戦争です。薩摩藩の武士は総出で対応しなければならないこの時に謹慎は解除されました。
英国艦隊との戦闘を経験し、大山は外国の脅威と近代戦の知識の必要性を痛感しました。そこで、幕臣の江川英龍に師事し、砲術を学びます。

大山の砲術は、1868年の戊辰戦争にて活かされることになりました。
大山は砲兵隊長として鳥羽・伏見の戦いから参戦すると、江戸を経て東北の会津戦争まで戦いました。
会津戦争にて太ももを撃ち抜かれて大山の戊辰戦争は終わりましたが、この戦争で薩摩の大山巌の名が一気に上がったのでした。

明治となり帝国陸軍の軍人となった大山巌は、ヨーロッパの視察へと赴きました。
このとき大山は造船所、武器工場、普仏戦争の戦場などを見学し、欧米と日本の差を思い知らされました。
大山は兵器研究のため、ジュネーヴへの留学に出ました。

1873年、留学中の大山は日本に呼び戻されました。
意見の対立によって明治政府から下野した西郷隆盛が政府に戻ってくるよう、大山が説得しろというのです。
明治維新は日本人から武士という身分を無くしました。明治維新のために戦ったのは武士であり、戦った結果として武士が無くなることに多くの士族が反感を持っていました。西郷隆盛はそんな士族たちに担がれていた西郷は政府に戻ることはできず、大山の説得は不調に終わりました。

各地で起こる不平士族の反乱を大村は国軍を率いて鎮圧していきました。しかし1877年、ついに鹿児島で西郷隆盛と士族たちが大規模な反乱を起こしました。西南戦争です。
大山は政府軍の攻城隊司令官として、西郷率いる反乱軍と戦うことになってしまいました。
東京まで攻め上らんとする反乱軍でしたが、残念ながら九州すら抜くことはできず、反乱は鎮圧されました。西郷も戦場にて自害しました。
西郷をはじめ郷里の同胞たちと戦った大山は戦後、親戚からも冷たくあしらわれ、二度と鹿児島に帰ることはありませんでした。

そんな悲しい出来事はありつつも、軍人としての大山のキャリアと実績は積み上がってゆきます。

1894年、日清戦争が勃発します。
陸軍大将となっていた大山は、第2軍の司令官を務め、清国と戦い抜きました。

さらに10年後の1904年、日本は南下してきたロシアとの日露戦争に突入します。
参謀総長の大山は、満州軍総司令官として全軍の指揮を執りました。
児玉源太郎など優秀な参謀たちが伸び伸びと力を発揮できるよう余計な口は出さず、責任は俺がとるという姿勢で日本軍の快進撃を支えました。

日露戦争の勝利に多大な貢献をした功績から、大山は元老に列せられるまでになりましたが、自らが総理大臣になろうとは決してしなかったといいます。
自分が手を出すのは軍事だけという、地位と名誉を手にしてからも謙虚さを失わなかった大山巌でした。
1916年に74歳で亡くなりました。