桶狭間古戦場を訪ねる

 

  (2021/12/28 撮影)

戦国史の大きなポイントとなる出来事の一つが、今川義元の大軍を織田信長が打ち破った桶狭間の戦いです。
そんな戦いの舞台であった古戦場跡ですが、現地に行ってみると、なぜか桶狭間の戦いの場所が二カ所在るという不思議なことになっていましたので、とりあえず両方とも見て参りました。


まずは名鉄の中京競馬場前駅で下車。


「競馬を嗜む人にはお馴染みの中京競馬場は、なんと桶狭間に在ったのか!?」
などと、競走馬たちの戦いの場をこの地にしたJRAの粋な選定に感心しつつ、駅の南側へと移動すると、『史跡 桶狭間古戦場』と刻まれた碑が現れます。


ここが『桶狭間古戦場 伝説地』です。
敷地内は庭園のようになっており、そんな中でも今川義元が討ち取られた場所を示すという『一号碑』の傍に建っているのが『今川治部大輔義元墓』です。


今川義元の墓の横に生えているこの木は、説明書きによると義元の馬を繋いでいた木なのだそうで、「ホンマかいな……」としか思えない代物です。


道路を挟んで向かいの高徳院という寺の敷地には『今川義元仏式の墓』が在ります。


そんな高徳院の鳥居をくぐると、『今川義元本陣』と記された碑が在ります。



さらに敷地内の墓地の方には『松井宗信の墓碑』が在りました。松井宗信は今川家の重臣で二股城主でした。


以上のように、明治年に史跡に認定されたこちら古戦場跡では、入口の碑にも昭和十四年と刻まれているなど、由緒を前面に出しています。



さて次は、先ほどの名鉄中京競馬場前の隣の駅にあたる有松駅で下車。


ここから南東に向かって歩きます。
途中に通過する交差点がその名も『桶狭間』でございます。


そうして20分ほど歩いて到着したのが、『桶狭間古戦場公園』です。


見回す限りは整備されてまだ新しそうな公園で、中央には銅像が立っています。
桶狭間ということで、今川義元と織田信長のコンビでの像です。


そんな像の傍には『今川義元の墓碑』が立っていました。


墓碑の横には、なんとまたしても今川義元の馬を繋いだ木が……
(真の桶狭間の戦場を主張する上で、これがあることがそれほどに重要なのでしょうか?)


公園の周囲の住宅地には新しそうな綺麗な住宅が建ち並んでいて、そんな中のとある民家の前に『今川義元本陣』の看板が立っています。


駅と公園にパンフレットを置き、駅周辺の古民家を整備して昔の街並みを再現。古戦場公園には銅像やARを使った案内を設置。さらには観光案内所も用意して、かなりアピールに力を入れています。



以上が二カ所する桶狭間古戦場跡でした。
数千の軍勢がぶつかった戦場ですから、広範囲に及んだことでしょう。 2つの古戦場跡は1キロほどしか離れていませんので、両方ともに桶狭間の戦場であってもおかしくはないのですが、桶狭間の戦いのクライマックスである織田方の毛利新助と服部小平太が今川義元を討ち取ったあの現場こそウチの領内であるという名古屋市と豊明市の譲れない想いが滲み出しているのです。

・今川義元の討ち死に場所
・今川義元が馬を繋いだ木
・今川義元本陣跡
我こそが真の桶狭間古戦場であると主張するには、この3点セットが必須なのでしょうか。どちらの古戦場跡にも用意されていたのですが。