乃木希典とは
 
 
乃木希典は幕末期の江戸の長府藩上屋敷で生まれ育った都会っ子でした。
十歳のときに親の都合で長州に移り住んだ乃木は、この頃に砲術や槍術などを学びました。

乃木が十七歳になった頃、幕府による第二次長州征討が起こります。四方面からの侵攻を迎え撃ったことから長州では「四境戦争」と呼ぶ戦いですが、乃木は小倉口方面の戦闘に参加しました。そこで奇兵隊と共に小倉城一番乗りの功績を挙げています。

時代は明治となり、乃木希典は陸軍へと入隊しました。
明治八年に隊を率いて秋月の乱を鎮圧、明治十年の西南戦争には官軍として九州に派遣されました。
この戦争中に脚を負傷して病院送りになった乃木でしたが、病院を抜け出して戦線に復帰したことから「脱走将校」の異名を得たといいます。
また、この西南戦争での戦いにおいて、戦死した部下が持っていた連隊旗を敵に奪われてしまう事件が起こりました。西南戦争には勝利しましたが、乃木は戦後もこのことを深く悔いて、自決を図ろうとまでしたところを盟友の児玉源太郎に諌められたといいます。

日本が優秀な人材を次々に先進国へと留学させ、一等国へ向けて進んでいた明治二十年、乃木も同僚の川上操六少将と共に、ドイツ帝国へ約1年半の留学を経験しました。
そこで乃木は軍人のあるべき姿を見いだしてきたようで、その後の彼の行動や言動に大きく影響を及ぼしたように見えます。

明治二十七年に日清戦争が始まった時、乃木希典は東京の歩兵第一旅団長でした。
大山巌が率いる第ニ軍として出征した乃木の軍は、旅順要塞をわずか1日で陥落させています。
その後も武功を重ね、終戦時には中将に昇進して、宮城県仙台市に本営を置く第ニ師団の師団長となりました。

日清戦争終結後、乃木は台湾総督に任命されて現地に赴任しましたが、これは官吏らとの折り合いが悪く、辞任したことで不成功に終わっています。

明治三十七年、ついに日露戦争が始まりました。乃木は第三軍司令官に任命されました。
大将へと昇進した乃木は遼東半島に上陸し、再びあの旅順要塞の攻略へと向かいます。
しかし、この頃の旅順要塞はロシア軍によって魔改造が施されており、日清戦争のときに攻略した旅順要塞とはもう別物となっており、まさに永久要塞といえる堅牢さを誇っていました。
乃木希典率いる第三軍は、この要塞に対し三度の総攻撃を行い、甚大な犠牲者を出しました。
第三回総攻撃では、乃木の次男・保典も戦死しています。

明治三十八年一月一日、約半年間の死闘の末、難攻不落だった旅順要塞が遂に陥落しました。
旅順要塞司令官ステッセルの降伏書を受理した乃木は一月五日、ステッセルら要塞側首脳陣との会見を行いました。このとき乃木は、敗残の将であるステッセルを紳士的に扱い、本来許されない帯剣を許可し、酒を酌み交わして打ち解けました。また、従軍記者たちの要求する会見写真は一枚しか撮影を許さず、ロシア軍人の名誉を重んじました。この会見は『水師営の会見』と呼ばれています。

日本は旅順要塞を攻略しましたが、それで戦争が終わるわけではありません。大きな損害を出していた乃木率いる第三軍でしたが、さらに北進して陸の最終決戦となった奉天会戦に参加しました。
そんな第三軍へと下った命令は、『西側から回り込んでロシア軍の側背を突くこと』です。命令に従い、乃木は軍を急行させます。
一方、ロシア軍の総司令官クロパトキンは、旅順を落とした第三軍こそが日本軍の主力であると判断していました。そのため第三軍への迎撃に兵力を投入し、またしても乃木の軍は激戦となります。

戦況を見ていた総参謀長・児玉源太郎は、この第三軍の戦場こそがこの決戦の勝利を決する場であると看破し、「乃木に猛進せよ」と伝えさせました。そして、全力で猛進していた乃木にこの命令が伝わります。
これにブチ切れた乃木は、自ら所在する第三軍司令部を最前線にまで突出させました。さすがにこれは危険過ぎると、幕僚たちが必死になだめて、司令部は元の位置に戻されたといいます。

乃木の第三軍の突進力は、ロシア軍に退路を断たれる恐怖を与えるのに十分でした。クロパトキンは優勢な戦線の部隊も退かせだすと、全域で日本軍が押し始め、奉天会戦は日本軍の勝利に終わりました。
このあと海軍が日本海海戦でロシア艦隊をフルボッコにし、日本は日露戦争に勝利しました。

戦争は終結したものの、旅順で将兵を死なせ過ぎたことを悔いた乃木は、国民に会わせる顔がないと帰国を渋ったといいますが、凱旋した乃木を待っていたのは、乃木を救国の英雄として迎える国民の称賛でした。

明治四十年、乃木は明治天皇の意向で学習院長に任命されました。そして、学習院に入学した後の昭和天皇となる裕仁親王の教育に努力しました。

時代が代わって大正元年の九月十三日、明治天皇の大喪の礼が行われました。そしてその日の夜、乃木は妻・静子とともに自刃して殉死しました。享年六十四