|
|
|
|
陸奥宗光とは |
|
|
|
|
陸奥宗光は江戸末期に紀州藩士の伊達家の6男として生まれました。
若くして脱藩して尊王攘夷運動に参加していましたが、
勝海舟が神戸海軍操練所を設立すると、そこで航海術などを学びます。
ほどなくして神戸海軍操練所は取り潰されてしまいますが、同じく操練所の塾生であった坂本龍馬が設立した海援隊(亀山社中)に参加して、幹部として活躍しました。
この頃に名を陸奥陽之助とし、伊達姓を捨てています。
坂本龍馬の暗殺以降、海援隊は離散しますが、大政奉還により江戸幕府も消滅。
明治新政府が成立すると岩倉具視の推挙で政府の会計方に就任します。
この頃アメリカは、江戸幕府から新鋭軍艦である『甲鉄艦』の建造を発注されていましたが、
幕府が無くなったこのタイミングでは艦の引き渡し先が存在しないために中立を保っていました。
陸奥はそんなアメリカと交渉し、甲鉄艦のアメリカからの引き渡しを受けることに成功し、
戊辰戦争での榎本武揚方勢力を降伏させるに至る活躍を果たしました。
明治10年の西南戦争で政府転覆を計画する一派に加担したことが発覚、明治15年まで獄中で暮らします。
釈放後、イギリス・オーストリアに留学。
明治19年に帰国すると、外務省に入ります。
明治23年まで大使としてアメリカ・メキシコで生活。
帰国すると、山形有朋内閣で農商務大臣、第2次伊藤博文内閣では外務大臣となりました。
明治日本の最大の目標は、不平等条約の改正でした。
国際法上、主権国家同士は対等です。不平等条約を結ばされるということは、文明国とみなされていないということです。
日本は複数の大国と不平等条約を結ばされており、中でも当時最大の国であり改正の邪魔をしてきたのがイギリスでした。
このイギリスとの条約改正にこぎつけない限り、他の国も応じようがないという状態です。
そのため幕末以来、日本は主権国家として、自主憲法を制定し議会を開設、軍備を拡大し、欧米が世界中に押し付けた国際法をどの国よりも遵守してきました。
日本が文明国であることを世界に知らしめて、不平等条約を改正するためです。
そんな時期に外務大臣に就いていた陸奥宗光にチャンスが訪れました。
日清戦争です。
清にはイギリスの居留民も居ます。
これまで模範生のように国際法を守ってきた日本は、今回も国際法に則って居留民を保護して戦います。
だからそろそろ日本を文明国として認めて、不平等条約を改正しろと交渉しました。
これは裏を返せば、文明国でなければ国際法を守る必要もない、そうなれば居留民がどうなっても知らないぞという脅しも含む駆け引きをしたわけです。
ついにイギリスは不平等条約の改正に応じました。
それに伴って他の国も続き、陸奥は全ての国との不平等条約の改正を成し遂げました。
さらに日清戦争でのヨーロッパ外交でも有利に進め、全権として下関条約に調印。
これらの活躍で、陸奥宗光は日本を欧米列強と肩を並べる大国へと引き上げました。
明治30年、肺結核で死去。享年54歳でした。
|
|
|
|
|