源義経とは
 
 
1160年、源義朝が平治の乱に敗れて死んだ。
義朝の九男であった牛若丸は幼子ながらもその素性から処刑されても不思議ではない立場でしたが、母の嘆願により死罪を免れ、鞍馬寺へと預けられました。
しかし、牛若丸から義経と名乗って成長してゆく彼が鞍馬の僧としての人生を歩むことは無く、平泉へと脱出した義経は奥州藤原氏の庇護を受けて暮らしていました。

平治の乱より二十年が過ぎた頃、関東にて源義朝の三男であった源頼朝が兵を挙げ、平家に反旗を翻します。頼朝の腹違いの弟にあたる義経は関東へと駆けつけ、兄頼朝の戦いへと参加しました。

源義経には軍事の才能がありました。
頼朝の命令で一族の源範頼と共に鎌倉から出陣すると、いち早く京を占拠していた木曽義仲を討ち滅ぼした。
さらには、一ノ谷の戦い、屋島の戦いなど連戦連勝で平家を西へ西へと追いまくり、遂には本州西端の壇ノ浦の合戦にて平氏を滅ぼてしまいました。

こうして天下の形勢をひっくり返した頼朝が天下を動かしていくのですが、この頃から弟義経との関係は悪くなっていきます。
頼朝に許可を得ず朝廷から官位を受けたことや、平家との戦いでの独断での行動が他の武士たちの反感を買ったようで、頼朝の元へも報告が上がっていました。 また、天下をほぼ制した頼朝にとって、強すぎる身内を危険に感じたのかも知れません。

頼朝によって遂に全国へ義経捕縛の命が出されたため、義経は再び奥州へと逃れ、藤原秀衡を頼りました。
しかし、この藤原秀衡が間もなくして亡くなってしまいます。
当主を継いだ藤原泰衡は頼朝の威光を怖れ、匿っていた義経主従を襲いました。
八方ふさがった義経は、自刃して亡くなりました。