源頼朝とは
 
 
時は1160年、平治の乱に敗れた源義朝は京を逃れ、東国を目指した。義朝の三男である源頼朝と二人の兄も一緒でしたが、近江にて平家方に捕捉され、父義朝と二人の兄は命を落としました。十三歳の頼朝も捕縛されましたが、平清盛の母の嘆願で死罪を免れ、伊豆への流刑で済まされたといいます。

二十年を経た1180年、「平家にあらずんば人にあらず」といれた平家全盛のこの時期に後白河法皇の皇子である以仁王が、平家追討を命ずる令旨を各地の源氏へと発しました。

この令旨を大義名分として、源頼朝も挙兵します。伊豆に流されて二十年、流人の身である頼朝ですが、遡れば八幡太郎義家など河内源氏の直系です。そんな彼を神輿として担ぐ板東の武士たちがいたのです。
頼朝軍は手始めに平家によって派遣されている伊豆の目代を襲撃し、伊豆を制圧しました。
次に頼朝の軍は三浦一族と合流して兵力を増強する予定だったのですが、大雨により合流が間に合わぬまま、石橋山にて平家方の大庭景親、伊東祐親ら三千余騎と戦闘に入ってしまいました。このとき頼朝軍の兵力は三百騎、多勢に無勢で散々な負け戦です。
しかし、挙兵してしまったからにはもはや後には退けず、頼朝と側近たちは山中を逃げまどい、海に出て江戸湾の対岸の安房国へと逃げ延びました。

落ち延びた先の安房国は、頼朝の味方である三浦氏の勢力圏でした。そこで敵方となる長狭常伴を討ち、また有力な安西氏が味方についたことで、頼朝は安房国を平定に成功しました。
さらに頼朝は房総にて勢力を誇る上総広常と千葉常胤に加勢を要請し、その後も加勢する味方を増やしながら西へと進軍し、ついには源氏の本拠地となる鎌倉を取り戻しました。

ここでついに都の平家が反応します。鎌倉へ向けて平維盛率いる追討軍を派遣したのです。頼朝はこれを迎え撃ち、富士川の戦いで勝利をおさめました。
この勝利によって、源氏による平家への反抗の狼煙が上がったこととなり、息を潜めていた日本各地の源氏が立ち上がるのですが、頼朝はここから関東の制圧に時をかけることになります。


各地で興った源氏の中から木曽義仲がいち早く京へと入り、都の平家を追い散らしました。
ところが、平家に替わって京に駐留したこの木曽の兵士たちの素行があまりにも悪かったため、京の治安は悪化し、食料も不足するようになっていきました。そんな木曽義仲を朝廷は疎ましく思い、源頼朝に上洛を要請して木曽にぶつけようと画策しました。

要請を受けた頼朝でしたが、自身は鎌倉からは出ず、源範頼と源義経に軍を与えて派遣しました。京にせまる頼朝軍と、当然それを警戒する木曽軍との間で戦闘となり、木曽義仲は討ち滅ぼされました。
木曽義仲を討った源範頼と源義経は、さらに京を越えて摂津国一ノ谷の戦いで平家を撃破し、平家を畿内から追い出しました。

頼朝は義経を京に留め、源範頼に配下の東国武士たちを付けて西国の平家討伐へと向かわせました。
1185年、この討伐軍が平家追討に手間取ったのを見た京の源義経は朝廷から出陣の許可を得ると、平家を討ちながら西へと快進撃を続け、本州西端での壇ノ浦の戦いにてついに平家を滅ぼしました。

源氏の宿願であった平家滅亡を叶えた源頼朝はその後、関係が悪化して敵対した弟の源義経と、その義経をかくまった独立勢力の奥州の藤原氏をまとめて滅ぼして、日本の武士の頂点に君臨します。

そして1192年、源頼朝は朝廷より征夷大将軍に任じられました。頼朝は鎌倉幕府を開き、武士が日本の政治を担うようになり、そんな武士の世が明治維新までの約700年続くことになります。