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前田利家とは |
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前田利家は1539年、尾張国の荒子城主だった前田利春の四男として誕生し、幼名を犬千代といいました。
跡継ぎとなる長男ではない利家は小姓として織田家へ出され、若き織田信長と出会います。
利家が長らく小姓を勤めていたある日のこと。
拾阿弥(じゅあみ)という信長お気に入りの茶坊主がいました。これが信長の威光を笠に着た嫌な奴で、利家はそんな拾阿弥といざこざを起こし、拾阿弥を殺してしまいました。
これに信長が激怒、仲間のとりなしで手打ちだけは免れましたが、利家は信長の元から追放されてしまいました。
それからの利家は何とかして信長の許しを得ようと、信長が起こす戦に個人参戦しては、果敢に槍を振るって見せました。あの桶狭間の戦いにも個人参加して三つの首を獲りましたが、なかなかお許しは出ませんでした。
信長が利家の帰参を認めたのは、美濃をめぐる斎藤家との戦いの中で足立六兵衛という豪傑を討ち取った時でした。
利家が織田家家臣への復帰に向けて勤しんでいた間に父が死去し、前田家は長兄の利久が継いでいました。ところが、主君の信長の命令で、その兄に代わって利家が前田家の家督を継ぐことになりました。
信長が美濃を攻略して大大名にのし上がると、周囲の大名や本願寺門徒による信長包囲網が敷かれ、利家にとっても戦の連続となってゆきます。
包囲網に鞍替えした浅井氏の裏切りによる金ケ崎の撤退戦では信長を護衛し、浅井・朝倉連合軍との姉川の戦い、朝倉を滅ぼした一乗谷の戦いと武功を挙げてゆく利家。さらに石山本願寺との戦いに長島一向一揆との戦い、武田氏との決戦となった長篠の戦いにも従軍して活躍し、利家は「槍の又左」の異名を持つようになっていました。
包囲網を撃破し、いよいよ天下が見えてきていた織田信長が1582年、明智光秀の謀反によって死亡したことで、利家は主君を失いました。
すると、信長の重臣たちが後継をめぐって対立するようになり、特に力を持つ羽柴秀吉と柴田勝家の争いが本格化していきます。
本能寺の変で信長が死んだ時点で、利家は柴田勝家の与力として北陸戦線で戦っていました。その流れで利家は柴田勝家の側に従っています。
羽柴秀吉と柴田勝家は賤ヶ岳の戦いで決戦に挑みますが、前田利家にとって柴田勝家は世話になった先輩であり恩人であり、羽柴秀吉は若き頃は近所に住み家族ぐるみで付き合いのある友人です。どちらとも戦いたくはないのに両者の決戦の場で主力となる自らの立場に葛藤し、遂に利家は戦場を離脱して府中城へ引き上げてしまいました。利家を欠いた柴田勝家は敗れました。
羽柴秀吉はその後も天下統一の障壁となる敵を次々と撃破していきます。羽柴勢に属した前田利家もその間は北陸にあり、近隣の反秀吉勢力を打ち破って支配地を広げてゆきました。
1585年に関白となった秀吉が豊臣姓を賜った頃には天下の趨勢はほぼ決し、九州征伐、小田原征伐、東北征伐の掃討戦でも利家は秀吉に付き従いました。
豊臣秀吉は天下を取り、新設された五大老の一人に利家が選ばれました。天下人の部下の中でも最高位です。
間もなく秀吉が死ぬと、同じく五大老の徳川家康が天下獲りに牙をむくのを抑えるのが、利家の立ち位置となりました。実際に利家は秀吉の息子の秀頼を後見し、天下が乱れぬよう家康を抑えていましたが、1599年に秀吉の後を追うように亡くなりました。
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