木曽義昌を訪ねる

 

千葉県旭市 (2021/2/24撮影)

千葉市から東、房総半島の根元あたりを太平洋側まで突き抜けると銚子という場所ですが、その銚子に致る少し手前、JR総武本線の旭駅で下車。


総武本線の線路の北側の道を線路からつかず離れず東へゆっくり15分ほど歩きますと、『木曽義昌史跡公園』と味のあるアーチで標された小さな公園を見つけることができます。

↑ 【園】の部分は剥がれ落ちていますが…… 

ここに木曽義昌像が在りました。


前後左右から見てみます。


足元にはこの像の正式名称でしょうか、『木曽左典厩兼伊豫守源義昌朝臣像』と刻まれています。
そもそも木曽義昌は美濃と信濃の境に近い木曽の地を先祖代々治めていましたが、豊臣秀吉によって徳川家康の与力とされたため、家康が江戸へと領地替えされた際に木曽義昌もここ下総阿知戸(あちと)へと転封となりました。


また、像のすぐ横には、木曽義昌の墓が在ります。

↑ 標識には『木曽義昌公遺跡水葬跡石塔』と記されています。 

正面から一見すると木の茂った自然公園の様相ですが、横から見れば小さな公園であることが判ります。


次に公園を離れ、南東の方角(線路の南側)へ10分ほど歩きます。


そうしますと、東漸寺(とうぜんじ)というお寺に辿り着きます。この東漸寺は、この地を治めることになった晩年の木曽義昌によって居城である下総阿知戸城内の一部に木曽家累代の菩堤所として建立された寺といわれています。

↑ 入口の石柱には『木曽義昌公御廟所』と記されています。 

そんな寺の奥に在るのが『木曽義昌公の供養塔』です。

↑ 説明書きには『戦国武将木曾義昌及び夫人、ならびに木曾家代々供養石塔 三基』と題されています。 

供養塔の説明書きにはこうあります。当時、寺の北側には「椿の海」と呼ばれる大きな湖が広がっていて、義昌公の遺体はそこに水葬されたと。 しかし江戸時代にこの椿の海が干拓されたため、その水葬地に改めて墓を建てたのだと。それが上記の木曽義昌史跡公園にあった『木曽義昌公遺跡水葬跡石塔』のことだと思われます。