春日局とは
 
 
天正七年(1579年)に生まれたお福ちゃん、父親は明智光秀の重臣だった斎藤利三でした。なので、生まれた頃のお福ちゃんは丹波国の黒井城の姫でした。

ところが、お福ちゃんにまだ物心も付く前に、明智光秀が本能寺の変を起こします。斎藤利三も共に行動しており、織田信長を殺したものの、敵討ちに馳せ参じた羽柴秀吉の軍によって父は敗死してしまいました。

お福ちゃんは母方の実家にあたる稲葉家に引取られました。そこで、これも母方の親戚となる公卿の三条西公国から教育を受け、広く教養を身につけたといいます。
成長したお福ちゃんは小早川秀秋の家臣の稲葉正成の後妻となりました。

関ヶ原の戦いが終わり、徳川の時代となった慶長九年(1604年)、徳川将軍家の乳母を目指したお福ちゃんは旦那と離婚、二代将軍の徳川秀忠の嫡子である竹千代の乳母に任命されました。

やがて竹千代が大きくなり、徳川家光として三代将軍に就任すると、お福ちゃんも「将軍様御局」として大奥の公務を取り仕切るようになっていきました。
二代将軍の正室のお江が亡くなってからは、大奥のしきたりやルール、役職などを整備し、大きな権力を握るようになりました。

寛永六年(1629年)、疱瘡を患っていた将軍家光の代理として上洛したお福ちゃんでしたが、御所への昇殿資格がなかったため、公家の三条西実条の義理の妹として縁組を行い、後水尾天皇に拝謁しました。
そこで賜ったのが「春日局」の名号です。

春日局は寛永二十年(1643年)九月十四日、隠棲していた湯島の麟祥院で亡くなりました。六十四歳でした。
死去に伴い、麟祥院をそのまま菩提寺とし、今に至ります。