伊藤博文とは
 
  天保十二年(1841年)、長州の農家に生まれた伊藤博文でしたが、家が貧しく12歳で父が養子に出ます。すると、養子先も下級武士の伊東家へと養子に入ったことで、伊藤博文も武士の身分となりました。(伊藤博文と書きましたが、正確にはこの時の名はまだ伊藤俊輔です)

ペリーの来航以来、外国への拒絶反応のように、過激武士たちによる攘夷運動が巻き起こりました。伊藤もイギリス公使館の焼き打ち事件に加わっていたといいます。

文久三年(1863年)長州藩は欧米の情報や文化を詳しく知るため、藩士五名をイギリスへ密航留学させました。井上馨・遠藤謹助・山尾庸三・井上勝と共に伊藤も任命され、後に彼らは「長州ファイブ」と呼ばれています。

しかし、伊藤の留学生活は長くは続きませんでした。イギリス到着後一年も経たない元治元年(1864年)三月、米英仏蘭の四国連合艦隊による長州藩攻撃が近いという情報がもたらされたのです。伊藤は井上馨と共に急ぎ帰国したのでした。しかし、短い期間ながらも近代化したイギリスを視察した伊藤の心は開国へと転じていたといいます。

帰国した伊藤の奔走も虚しく、長州藩は四国連合との下関戦争を引き起こして敗れました。さらに長州藩は八月十八日の政変で京を追われると、政敵とみなした会津藩の排除を名目に御所へと攻め込む暴挙に出ましたが、逆に薩摩藩などに排除されてしまいました。

外国船を相手にした下関戦争と御所を舞台にした禁門の変、派手に暴れた長州藩がそのまま放置されるわけもなく、幕府による征討の標的にされます。幕府としても威信が傾いてきていた時期ですから、出る杭は打たねばならぬのです。
この第一次長州征伐に至って、長州藩内では幕府への恭順を主張する俗論派が牛耳るようになりました。それと入れ替わるように立場を失った正義派の者は、命を狙われるようになったのです。伊藤は攘夷派ではないし、開国にも賛成でしたが、俗論派からは敵と見なされて狙われる側になってしまいました。身の危険を感じた伊藤はしばらく姿を隠すことにします。

元治元年12月15日、高杉晋作は俗論派を追い落とすために藩庁へと攻め上るべく、功山寺にて決起しました。クーデターなのですが無謀な行為と見られたため、人が集まりません。高杉一人での決起です。「高杉さんを一人で死なせるわけにはいかない」と、伊藤は功山寺に駆けつけます。たった二人での反乱です。
そこに力士隊の一部隊員がやって来ました。力士隊は伊藤が率いていた部隊です。伊藤は反乱に参加する自分の連帯責任を隊士が負わされることがないように、力士隊を辞して来ていたのですが、伊藤に付いてゆくと決めた隊士がいたのです。
決起した高杉たちは真っ直ぐに政庁へは向かわず、長州国内を練り歩きながら政庁を目指しました。すると、少しづつ決起に加わる者が増えていったのです。そして、集団がある程度の規模になっていくと、様子見していた者たちも加わるようになってゆき、見事にクーデターを成功させたのです。

この頃から、長州藩だけではなく、日本国内で潮目が変わってきていました。倒幕の機運が高まってきたのです。
第二次長州征伐そして戊辰戦争と、明治維新に向けた戦いが展開されましたが、伊藤は英語ができるという理由で武器の手配役に回されてしまい、戦いに直接参加することができなかったといいます。

ともあれ、日本は明治時代となりました。明治政府は国民の税を中央政府が預かり、富国強兵を目指す近代国家の構築を急ぎました。
伊藤は『伊藤俊輔』から『伊藤博文』へと改名し、明治政府に出仕しました。英語が堪能だったことが幸いし、政府の重鎮へとトントン拍子に出世を重ねていきます。

伊藤は政府の殆どの政策に関わっていきましたが、中でも特に伊藤が中心となって成し遂げたのが、明治二二年(1889年)の日本初の近代憲法となる大日本帝国憲法の制定と、明治二三年(1890年)の国会開設でした。

伊藤は初代、五代、七代、十代と、四度の総理大臣を務めました。
その間に日本は日清戦争で勝利するなど国内の近代化整備のみならず、対外的な軍事の面でも近代国家として力を示してみせました。明治27年の日清戦争の直前には、不平等条約の一部改正が実現しました。

日露戦争に勝利した明治38年、韓国統監府が設置されると伊藤が初代統監に就任しました。この頃から話に上がっていたのが「朝鮮併合」についてですが、伊藤は併合には反対の考えでした。

明治42年、ロシア外相との会談のためにハルビン駅を訪れた伊藤博文でしたが、これを狙ったテロリストの凶弾に倒れました。
享年69。

伊藤らが長年にわたって奔走した日本の完全なる条約改正についに成功し、幕末以来の悲願を成し遂げたのは伊藤の死の二年後のことでした。