板垣退助とは
 
 
板垣退助は幕末期の土佐藩の上士である乾家に生まれ、乾退助と名乗っていました。 土佐藩は上士と郷士での身分差別が厳しかったことがよく知られていますが、乾退助は郷士の中岡慎太郎や坂本龍馬とも親交があり、 のちの民権運動家だけあって、相手の身分にこだわりをもたない人物だったようです。

乾退助は公武合体が主流の土佐藩で、一貫して武力倒幕を主張し続けました。 中岡慎太郎らを通して、薩摩藩や長州藩や水戸藩らとつながりを持つようになり、慶応三年(1867年)には 「戦となれば、藩論の如何に拘らず、必ず土佐藩兵を率いて薩摩藩に合流する」という薩土密約を結んでいます。
第二次長州征伐で長州藩が幕府軍の攻撃をはね返したのを境に、時勢が倒幕に傾いてくると、乾退助は土佐藩の家老各に昇進し、 薩摩から新式銃を買い込み、軍制改革を行います。 そして戊辰戦争が始まると、土佐勤皇党の藩士を中心に迅衝隊を組織して新政府軍に参加しました。

この頃、乾退助から板垣退助に姓を変えています。じつは退助は、武田信玄に仕えた名将、板垣信方の子孫なのです。 甲州方面に進撃するにあたって、民衆の支持を得られるという岩倉具視の助言に沿って板垣を名乗りました。

板垣退助には軍事の才能があったようで、幕府軍のより先に甲府城を押さえると、近藤勇率いる新選組改め甲陽鎮撫隊を撃破します。 武田旧臣の多い八王子で支持を得つつ江戸に至り、さらに東北へと転戦して東北諸藩を破竹の勢いで攻略していきます。


明治になり、参与として新政府に参加しましたが、明治六年の征韓論に敗れて、西郷隆盛らと共に政府から去ります。

これ以降、板垣退助は自由民権運動に明け暮れ、薩長閥中心の政治体制から議会を開設して選挙による議員の選出と運営を説きました。 明治十四年、国会開設の詔によって、十年後の議会開設が約束されると、板垣は自由党を結成。支持を拡大させるために全国を遊説して回りました。

そんな中の明治十五年四月、岐阜県での遊説を終えた時、短刀を持った暴漢に襲われて数カ所を刺されました。 この時の板垣の言葉が「板垣死すとも自由は死せず」といわれています。
まるで織田信長の「是非に及ばず」、犬養毅の「話せばわかる」のように、死を前にした最期の名ゼリフに聞こえますが、 板垣はこのあとも元気に活動を続け、まだまだ死にません。

帝国議会開設後は、第二次伊藤博文内閣や大隈重信内閣にて、内務大臣を務めたりしています。

明治三十三年に政界を引退しますが、その後も長生きし、大正八年に亡くなりました。 享年83歳