井上勝とは
 
 
幕末期とはいえまだ幕府の威勢が強かった文久三年、五人の長州藩士が密航して日本を離れました。後の世に長州ファイブと呼ばれることになる彼らが降り立った地はイギリスでした。
五人の名は井上聞多、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔、野村弥吉。彼らはロンドン大学に留学して、当時の最先端の近代国家を見聞したのです。そんな五人の中の野村弥吉こそが、後の井上勝です。

井上勝は勉強の虫でした。長州ファイブに選ばれる前も、様々な分野における第一人者の門をたたいては勉学に没頭してきました。
ロンドンでの井上も困窮に耐えながら勉強を続けます。早々に帰国した井上聞多と伊藤俊輔、共に四年頑張ったが病気で帰国した遠藤謹助見送りさらに二年、鉱山・鉄道技術を修めてロンドン大学を卒業したときには明治元年でした。

明治政府に呼ばれて役人となった井上勝は日本初の鉄道の建設に携わることとなりました。日本人にはまだ実務経験者が居なかったため、イギリス人技師の指揮のもと、井上らは新橋・横浜間の鉄道の開通を成功させました。
神戸・大阪・京都間に鉄道を開通させると、イギリス人技師に頼ることなく京都・東京間をはじめ日本中に鉄道網を構築していきます。

明治43年にイギリスでの鉄道視察中に亡くなるまで、日本の鉄道の発展に全てをかけた井上勝はその死後、『鉄道の父』と呼ばれるようになりました。