井伊直弼とは
 
 
井伊直弼は文化12年(1815年)、彦根藩主の井伊直中の14男として生まれました。
5歳で母、17歳で父を亡くしますが、直弼は日々、文武の修練に励むまじめな人でした。
しかし、いかんせん14男、母方の家も庶民でしたので、養子のあてもなく、32歳まで淋しい時を過ごします。

32歳のとき兄の死をきっかけに、直弼はまさかの次期藩主に指名されました。 そして4年後、彦根藩第13代藩主となります。

常に徳川の先鋒である井伊家の藩主となった直弼は、幕府の政治においても中枢に座りました。 そんな頃に起こったのが、ペリー率いる黒船の来航です。

この頃の日本で最も国際情勢に精通し、正確な戦力分析ができていたのは江戸幕府でした。 ペリーの艦隊は日本に来た最初のアメリカ艦隊ではありません。それ以前に来航したアメリカ船にも幕府は対応しましたし、 今回ペリー艦隊が来ることも、来る時期も幕府は知っていました。 当時の覇者はイギリスでチャレンジャーはロシアです。イギリスについてはアヘン戦争での清国の惨状を知っていますし、 ロシアの残忍さも世界では有名でした。 よって幕府としては、他国との条約となるベースとなる最初に条約を結ぶ国に、これらの国を選ぶことを避けねばならず、 この時まだ新興国だったアメリカを相手に選んだわけです。

直弼自身は攘夷志向だったのだそうです。
しかし幕府の中枢にいる直弼には日本の軍事力で欧米の近代兵器に対抗できないことは判っていました。 さらに直弼はアメリカとの通商修好条約締結は、朝廷と共同して進めたいとも考えていましたが、過激攘夷派の水戸藩に邪魔されて、 幕府単独での締結となりました。

さてその水戸藩ですが、朝廷への工作を行って勝手に攘夷の密勅を得ました。こんなもので条約を無視して外国に攻撃を加えられては、幕府の苦労はぶち壊しです。 直弼は弾圧に踏み出します。攘夷を主張する水戸藩や学者を徹底的に処罰しました。 攘夷派のやりたいようにやらせておくと、国が滅ぶからです。

世の中の直弼への評価は、当時も今も残念なもので、 「直弼が幕府の中心となって外国に頭を下げた上に、生意気な外国を倒そうとする日本の勇者たちを捕まえて殺した」です。

安政七年三月三日、桜田門外にて直弼は、攘夷派の志士たちに襲撃されて、殺害されました。

↑ 現在の桜田門。