井伊直政とは
 
 
祖父の井伊直盛は桶狭間の戦いで今川義元と共に討死。父の井伊直親は松平元康(後の徳川家康)との内通を今川氏真に疑われて殺されました。
そのため井伊直政は親戚の元で育てられるも、本拠を転々としたり、身の安全のために井伊家の家督相続権を失うなど、 周囲の情勢に翻弄されるなかなかに不幸な生い立ちでした。

直政15歳の時、鷹狩りに出た徳川家康の目にとまり、小姓として家臣に加わります。

その後、井伊家を代行していた養母の井伊直虎が亡くなると、井伊家を継ぎました。

以降は徳川家康の旗本として、家康に付き従っていきます。

本能寺の変の後、家康は武田家滅亡後の旧武田領である信濃と甲斐を獲ると、武田家の旧臣たちを井伊家の与力としました。
そんな武田旧臣たちの求心力を得るために、直政は自軍の軍装をかつて武田四天王の一人だった山形昌景の 軍装だった赤備えとしたため、これより井伊軍団は「井伊の赤備え」と呼ばれます。

直政は「突き掛かり戦法」という、いかにも三河武士らしい突撃戦法を得意としました。そのあたりも家康に好かれた理由なのかもしれません。
天下人の豊臣秀吉をして東日本最強と言わしめた本多忠勝が同僚にいながらも常に徳川の先鋒を務めたといえば、 直政の凄さがよく分かるのではないでしょうか。
ちなみに豊臣秀吉の小田原征伐の際、難攻不落の小田原城の城内まで攻め込んだのは井伊直政だけで、 天下にその名を轟かせています。

時は1600年、天下分け目の関が原の戦いでもやはり直政は徳川家康率いる東軍の先鋒を務め、戦後はその功績により石田三成が治めていた佐和山城を与えられました。しかし、関が原の戦いで受けた鉄砲傷が癒えることなく、1602年に破傷風で死去しました。
享年42歳の若さでした。


約260年後の幕末の大老があの井伊直弼だったように、直政から続く井伊家は彦根藩主として徳川家を支えました。