堀直寄とは
 
 
堀直寄は天正五年(1577年)、堀直政の次男として生まれました。
十三歳で豊臣秀吉の小姓に取り立てられ、従五位下丹後守に叙任されています。

慶長三年(1598年)、実家の堀家が越前北ノ庄城から越後春日山城へ転封となりました。このとき直寄は豊臣秀吉に老齢の父を助けるために三年間の帰郷を願い出ると、これに感心した秀吉から越後魚沼郡に坂戸藩2万石を与えられました。

秀吉の死後、豊臣家の威光を守りたい石田三成と日本一の実力大名である徳川家康が争う情勢となりました。秀吉に恩を感じている直寄は石田三成と組むことを主張したものの、堀氏は徳川方に就くことを決定しました。

慶長七年(1602年)のこと、越後蔵王堂城主の堀親良が出奔し、親良は甥の鶴千代を蔵王堂城主にしました。直寄は鶴千代を補佐するも、鶴千代が若くして亡くなってしまい、結果として直寄が坂戸と蔵王堂の両方合わせた5万石を領有することになりました。

慶長十三年(1608年)、父の堀直政が死去すると、家督を継いだ兄の直清と対立するようになった直寄でしたが、直清が堀家の幼君忠俊に訴えたことで追放されてしまいます。すると直寄は、さらに大物の徳川家康に訴え返したことで、自身の1万石減封さらに信濃飯山藩4万石への転封と引き換えに直清と忠俊を改易に追い込んだのでした。

なかなかに小賢しい堀直寄、振り返れば十三歳の時、父からの使者として面会した豊臣秀吉の小姓となった直寄、今回も減封となりながらも駿府にて徳川家康の傍に仕えることになります。

慶長十六年に駿府城火災が発生した際にはいち早く駆けつけると、消火および金銀財宝の運び出しを行っただけでなく、消火のための器材に自分の名前を書いておきます。すると、後から駆けつけた人も皆、直寄の名前入り器材を使うようにしたことで、この日の手柄は直寄のものとなりました。これで美濃多芸郡に1万石加増されています。なかなかに小狡いです。

慶長二十年(1615年)、戦国時代の集大成である大坂夏の陣に堀直寄も東軍として参戦しました。
水野勝成の指揮下となった堀隊は、大和路方面から大阪へ攻め寄せていました。
5月6日午前0時には国分に展開していた東軍の前に、後藤基次指揮の西軍先鋒が到着します。
午前4時、後藤勢は東軍の松倉重政、奥田忠次の部隊に向けて攻撃を開始、奥田は戦死、松倉隊も崩されてゆきます。
しかし、ここで堀直寄隊が後藤勢に横撃を仕掛け、西軍の先陣を崩したといいます。

徳川家康の死後の元和二年、直寄は3万石加増された上で再び蔵王堂城へ移され越後長岡藩の領主となります。そしてここに腰を据え、発展させるための基礎を築いていた矢先、たった二年で越後村上藩10万石に転封となりました。

さて、この頃の堀直寄ですが、生前の徳川家康から『百万石の禄を与える』という御墨付を貰っていたといいます。これをもって江戸幕府の老中に申請を行いました。百万石といえはもう大大名ですから、さすがに老中は困ります。そんな苦し紛れに老中は御墨付の中の百万石の「石」の字に虫食いがあるのを見つけ、「これは百万石ではなく百万両だ」と言い張ることにしました。
『三年間、佐渡金山を使ってよい』という結果を与えられた直寄は怒ります。そしてこのとき得た金で、怒り任せに村上城を増改築し、士分の増員を行い、江戸の上屋敷に凌雲院を建て、不忍池を作りました。そして、当然謀叛を疑われ、問い詰められたといいます。

晩年の直寄は上野の屋敷で悠々自適の生活を送り、寛永十六年(1639年)に63歳で亡くなっています。